約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
曹操が生み出した魏を潰したのは、功臣たちの息子だったのか?
曹操の旗下で、親族の武将として活躍した人物に曹休と曹真がいます。曹休が若い頃に苦労を重ねて曹操の元に辿り着いたとき、曹操が「(曹休は)我が家の千里駒である」と言ったことは前回の記事でも紹介しました。
曹休は豪勇の武将として、曹真は勇気と謙虚さを併せ持つ武将として共に活躍しますが、曹休は228年に死去、曹真も231年に死去しており、二人の功臣は曹操の死去(220年)から10年ほどで世を去りました。
曹一族のこの二人の貢献は極めて大きなものですが、実はこの功臣たちの子供は、曹操とその一族が保っていた王朝を崩壊させる原因を作り上げてしまいます。
曹休の子供、曹肇(そうちょう)は、魏の2代目皇帝が崩御するとき、曹宇(曹操の子供)とともに次の皇帝を補佐する役割を与えられる予定でした。
ところが、皇帝崩御の直前に、曹宇の反対派が「曹爽・司馬懿」を皇帝の補佐役に切り替える助言をして、決定されてしまいます。曹肇は、魏の次世代権力を管理する権限を一瞬のスキを見せたことで失ってしまったのです。これにより、「曹一族の魏」という状況は大いに不安定になります。
曹爽は曹真の息子でしたが、父親ほどの武勇も知略もなく、同じく皇帝の補佐役となった司馬懿の権謀術数になすすべもなく騙されて、最後は非業の死を迎えます。権力の掌握に失敗した曹宇(曹操の息子)、曹肇(曹休の息子)、曹爽(曹真の息子)は、自分たちの愚かさで魏王朝を失ってしまう道筋を作ってしまったのです。







