足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる等持院 写真/ogurisu/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

波瀾万丈の半生

 室町幕府の施政方針を示した式目(制定法)である建武式目(1336年11月)の制定によって室町幕府は創設されたとされます。これより以前、足利尊氏(室町幕府初代将軍)は九州より東上し、敵対する後醍醐天皇方の武将(楠木正成など)を湊川の合戦で打ち破り、京都を制圧していました。これからバリバリ政務を執るぞと意気満々かと思いきや、尊氏はそうではありませんでした。

 同年8月、尊氏は京都・清水寺に願文を奉納しているのですが、その中において「この世は夢のようだ」とか「自らに仏の加護を賜り、後生の安寧を願う。そして、現生での果報は弟の足利直義に与えていただきたい」ということを書いているのです。

 まるで世捨て人のような言葉。この時、尊氏31歳。年こそ若いですが、これまで尊氏が体験してきたことを振り返れば、彼のような気持ちになるのも理解できます。

 鎌倉幕府の有力御家人でありながら、最後には後醍醐天皇に味方し、後醍醐による建武政権の成立に貢献。建武政権成立の功臣でありながら、尊氏の真意とは逆に、後醍醐天皇と対立し、討伐の対象となってしまう。関東から都に攻め上るも、官軍に敗れ、九州に落ち延びることに。そして前述したように、再び都に舞い戻るのです。まさに波瀾万丈の半生と言えるでしょう。

 しかも、尊氏は後醍醐天皇に可能ならば叛逆したくないと考えていたので、計らずも叛逆する形になってしまったことに心苦しい思いを抱えていたのかもしれません。よって、冒頭の願文のような気持ちになってしまったとしてもおかしくないと筆者は考えています。

 尊氏は現代の歴史家などから「気が弱い」とか「決断力が不足している」とか、果ては「躁鬱気質」とまで評されることがあります(戦前においては、天皇に叛逆した逆臣であるとの尊氏評が専らでした)。

 しかし、尊氏・直義兄弟とも交流があった禅僧・夢窓疎石は尊氏について、次のように述べています。

「第一にお心が強い。合戦において、生命の危険にあうのも度々であったが、その顔には笑みが含まれており、恐れる様子がない」「第二に、天性の慈悲がある。人を憎むということがない。多くの怨敵を許し、子の如く扱っている」「第三に、お心が広い。物を惜しむという気持ちがない。金銀であっても、まるで、土か石のように考えている。武具や馬などを人々に恵与す時も、財産とそれを与える人を確認せず、手に触れるに任せて与えてしまう。献上品も数多いが、皆、人に与えてしまう」と。