後醍醐天皇

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

君に向かって、弓をひき矢を放つことはない

 足利尊氏は、中先代の乱(建武2年=1335年、北条時行の挙兵)を鎮圧してからも、朝廷の意向を無視し、鎌倉に留まり続けていました。業を煮やした後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命じます。討伐軍(官軍)の関東襲来を、尊氏の弟・足利直義や細川氏・仁木氏らは尊氏に告げて、出撃して戦うことを要請します。

 ところが、軍記物『太平記』によると、尊氏は次のように回答し、要請を拒否したとされるのです。「後醍醐天皇には御恩がある。御恩を頂戴しながら、これを忘れることは、人としてあってはならぬ。此度、天皇がお怒りなのは、護良親王(後醍醐天皇の皇子。1335年、直義の命により、鎌倉で殺害される)を失ったことと、諸国へ軍勢催促の御教書(将軍の命を奉じてその部下が出した文書)を下したことであろう。この2つとも、尊氏の所為ではない。そのことを謹んで言上すれば、お怒りが解けるのではないか。お前たちは、それぞれ、身の進退を計れ。この尊氏は、君(後醍醐天皇)に向かって、弓をひき矢を放つことはない。もし罪科遁れることができなければ、出家しよう」

 尊氏はそう語ると、障子を引き立てて、なかに入ってしまうのです。尊氏の言動に、一同は興醒めして退出したとのこと。尊氏は出陣せずということで、代わりに弟・直義が鎌倉を出立します。

 ところが、直義軍は、手越河原の合戦(静岡県静岡市)などで新田軍に敗れて、敗走するのです。『太平記』によると、直義が鎌倉に帰還し、尊氏の邸を訪れてみると、邸の門は閉じられて人の気配もない有様。

「誰かある」と問えば、やっと須賀左衛門という武士が出てきたものの、彼からは「尊氏様は、建長寺にお入りになり、出家したいとのご発言がありましたが、皆々がお諌めしました。本結(髪の髻を結び束ねる紐)は切られましたが、まだ法体にはなっておられません」との驚きの発言が。この発言を聞いた直義や足利氏の家臣は仰天します。

 が、その時、上杉重能は次のような名案を思いつきます。それは「御出家になられ、法体になられたとは言え、帝のお怒りから遁れることはできないと聞かれたら、お考え直しになるのではないか。偽の綸旨(天皇の意向を体して、側近が発給する文書)を2・3通書いて、尊氏様に見せるのが良いのでは」というものでした。

 一同もそれに賛同し「隠退しようとも、尊氏ら一類を許すことはない」との綸旨を偽作、尊氏に見せるのです(『太平記』によると、10通ほど偽作したようです)。それを見せられた尊氏は、出家しても許されることはないのかと観念し、「一門の浮沈、この時にて候ひける」と官軍に抵抗することを決断します。