戦乱の続くフランス東部のロレーヌ地方を中心にして制作したラ・トゥールでしたが、その生涯の詳細は伝わっていません。一体どんな画家人生を辿ったのでしょうか。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《聖ヨセフの夢(聖ヨセフの前に現れる天使)》油彩・カンヴァス 93×81cm ナント、市立美術館

画家修業はどこでしたのか? 

 ともにバロックの先駆者カラヴァッジョ(1571〜1610年)の光の表現に影響を受けた、ラ・トゥール(1593〜1652年)とフェルメール(1632〜1675年)。静謐で精神性の高い画風だけでなく、現存する作品の少なさや、絵の師匠が誰であったかなど画家人生において謎が多いことなど共通点があるため、よく比較されます。カラヴァッジョの影響については次回解説することにして、今回はラ・トゥールの生涯について紹介しましょう。

 ラ・トゥールは1593年3月、フランス・ロレーヌ地方の小都市・ヴィック=シュル=セイユに、製パン業者の息子として生まれます。神聖ローマ帝国(ドイツ)とフランスの国境近くにあるロレーヌは当時、公爵家が統治するロレーヌ公国という独立した国家でしたが、ヴィック=シュル=セイユはフランス王が支配権を持つ司教区でした。

 ラ・トゥールの絵の師匠は誰なのかということはわかっていません。また、終生ロレーヌで活動したとも言われていますが、1616年以前にロレーヌ地方にいたという記録は残っていないことから、この期間、どこで活動したかについては、大きく2つの説が唱えられています。フランスとイタリアの美術史家たちは、ローマに行っていたという見解を持ち、イギリスの美術史家たちは、ローマで修行をしてオランダに戻ったカラヴァッジョ派や、それ以前の画家たちとの関係を説きました。パリで修行した可能性も残っています。

 1616年、生地のヴィック=シュル=セイユで代父(受洗者の神に対する約束の保証人となり、宗教教育に責任を持つ)として洗礼に立ち会ったという記録が残っているため、この頃には絵の修行を終え、独り立ちしていたと思われます。

 途中、ロレーヌの首都ナンシーや、パリに行ったこともわかっています。現存する最も古い絵画とされている「アルビの聖人像」の連作は、この頃の制作だと考えられていますが、1614〜15年頃、修行の集大成としてパリで制作された可能性もあります。

《聖アンデレ》油彩・カンヴァス 62.2×50.2cm ヒューストン、ヒューストン美術館

 1617年、ラ・トゥールが24歳の時に、ロレーヌ公に仕える貴族の娘ディアーヌ・ル・ネールと結婚します。1620年には妻の出身地であるリュネヴィルに居を構え、弟子をとります。10人の子どもにも恵まれ、1621年に洗礼を受けた次男エティエンヌは、のちに画家となりました。

 1623年、ロレーヌ公アンリ2世はラ・トゥールの絵(主題は不明)を購入し、翌年にも聖ペテロの画像(消失)を買ったという記録が残っています。

 フランス王国と神聖ローマ帝国に地理的に挟まれているためロレーヌは、両国の戦争の影響を大きく受けます。1631年、フランス王ルイ13世はロレーヌに侵攻し、33年にナンシーを包囲しました。市民たちはルイ13世に忠誠を誓い、ラ・トゥールも市の名士たちに混じって忠誠宣誓書に「貴族ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」と署名したことがわかっています。

 1639年にはルイ13世の許可がなければ名乗ることができない「国王付き画家」という称号を用い、パリに赴いた際にはルーヴル宮に居を構えたという記録も残っています。

 また、18世紀のロレーヌの修道士オーギュスタン・カルメが残した地域の歴史を記した記録に、ラ・トゥールは「夜の絵に秀でた画家で、ルイ13世に聖セバスティアヌスを表した夜の絵を献上すると、王は寝室の全ての絵を外し、この絵だけ飾った」とあります。さらにそこには、シャルル4世(ロレーヌ公)にも同様の絵を献上したことが記されています。

 ほかにもロレーヌ総督ラ・フェルテに毎年絵を贈呈し、パリではルイ13世の宰相リシュリュー、大法官セギエ、財務卿クロード・ビュリオンなどがラ・トゥールの絵を所有していたことがわかっています。これらのことから当時、画家として成功していたことは間違いないでしょう。