これまでに類を見ない細密描写で観る者を圧倒したヤン・ファン・エイク。その生涯と兄フーベルトとともに完成した北方最大の祭壇画《ヘントの祭壇画》は、多くの謎に包まれています。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《ヘントの祭壇画》「聖母マリア」(部分) 1432年 油彩・板 ヘント、聖バーフ大聖堂

北方ルネサンスはルネサンスではない!?

 今回から北方ルネサンスの巨匠を紹介していきます。まず、北方ルネサンスについて簡単に説明しましょう。

 イタリア・ルネサンスと同じ時期、15世紀に北方で花開いた新しい芸術の潮流を美術史では「北方ルネサンス」と呼んでいます。北方とはアルプス以北の地域のことで、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにあたる地域のネーデルラントや、ドイツを指します。

 中世を脱し、現実世界に目を向けて写実的に描こうとしたこの潮流は、イタリア・ルネサンスと並ぶ、とても重要な動きです。ただイタリア・ルネサンスは古代の再生を目指しましたが、北方は古代再生を目指したわけではないので、厳密にはルネサンスという名称は当てはまりません。しかし、新しい世界観を追求している点はイタリアと共通しています。

 イタリアと北方は、同じようにリアリティを追求しているのですが、アプローチが全く違います。イタリア・ルネサンスではこの連載の第1回レオナルド・ダ・ヴィンチのところで紹介した「一点透視図法」と呼ばれる、ある1点を視点として物体を人間の目に映るのと同じように描くという方向性でした。遠くを小さく、近くを大きく描く一点透視図法によって画面を構築しながら空間を作り上げていきます。

 しかし、北方に一点透視図法が入ってくるのはずっと後で、レオナルドのように数学的に遠近法を構築していったのではなく、目に見えるままを忠実に、しかも顕微鏡的な眼差しで細部を描いていく技法です。

 その細密な描写と質感の表現を積み重ねていくことで、リアルな人間や空間の表現が生まれ、現実世界が描かれたことが一番大切なポイントです。

 15世紀の同じ時期、南(=イタリア)と北でこのような新しい表現が出てきたことが、美術史では重要な出来事となっています。

 北方ルネサンスの出発点となる第一世代と呼ばれる代表的な画家には、ロベルト・カンピンやロフィール・ファン・デル・ウェイデン、ヤン・ファン・エイクらがいます。彼らは中世的な神々の表現などが残っていたりすることから美術史上、ゴシックの終わりにその名が出てくることもあります。なかでも、ヤン・ファン・エイクは北方の偉大な画家として後世に名を残しました。

 北方絵画の最大の特徴である、観る者の気が遠くなるほどの細密表現を可能にしたのは、ヤン・ファン・エイクが完成した油絵具によるものでした。この功績によって以降の西洋絵画が大きく変わります。