名もなき人々を生き生きと描き、「農民ブリューゲル」「民衆文化の画家」と呼ばれた16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル。生年や生地などその生涯はよく知られていません。他に類を見ない独特の世界を築いたブリューゲルの魅力と謎を解説していきます。
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
ロマニストの知識人クックの下で修業
北方ルネサンスを代表するフランドル(現在のベルギー)の画家のひとり、ピーテル・ブリューゲルは、その生年も生地も知られていません。おそらく1525年から30年頃に生まれたと推測されています。
画家にして詩人であったカーレル・ファン・マンデルが記したネーデルラント(「低地地方」を意味する、現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルクとフランス北部を合わせた地方の旧称)の画家たちの伝記『北方画家列伝』に収録されているブリューゲルの記述では、その生地は現在のアントウェルペン(ベルギー)と、ロッテルダム(オランダ)の中間に位置する町・ブレダ近郊となっています。
ブリューゲルは1545年頃、アントウェルペンのピーテル・クック・ファン・アールストに弟子入りします。師クックはネーデルラントを代表するロマニストでした。ロマニストとは、イタリアのおもにローマに留学して,自国の精緻な写実の伝統を離れ,古代彫刻とミケランジェロやラファエロといった盛期ルネサンスの芸術家の様式を吸収した16世紀のネーデルラントの画家のことです。
クックは神聖ローマ皇帝カール5世に召された宮廷画家で、古代ローマの建築家ウィトルウィウスや、ルネサンス後期の建築家セルリオなどの建築論をフランドル語に翻訳するという業績も残しています。また、絵画だけでなくタピスリー(おもに壁掛とされる絵画的な模様を表した織物)やガラス絵の下絵など、幅広く手掛ける画家でした。
1550年、師クックが亡くなった後、版画家でもある画家ピーテル・バルテンスの助手としてメッヘレンのシント・ロンバウト大聖堂の祭壇画を手伝い、外翼のグリザイユを制作しますが、残念ながらこの祭壇画は焼失したとされ、現存していません。
1551年にはアントウェルペンの聖ルカ組合に、親方として登録している記録があります。
1552年から54年頃、イタリアを訪問していることがわかっています。クックというロマニストを師に持ち、イタリア訪問もしているブリューゲルですが、作品にはルネサンスの影響が見られません。しかし、古代ローマの闘技場などの古代遺跡を代表作であるふたつの《バベルの塔》(1563年・1568年)に応用したり、アルプスの風景を作品に取り入れたりしていることから、イタリア旅行はブリューゲルに大きなインスピレーションを与えたと考えられます。
イタリアへ行った同時期の画家はイタリアの影響を受けたロマニストというエリートでした。彼らはネーデルラント絵画の伝統である精密な写実から離れ,古代彫刻とミケランジェロやラファエロといった盛期ルネサンスの芸術家の様式を模倣します。これに対しブリューゲルは、当時マイナーだった風景や農民など独自の世界を構築しました。ブリューゲルの作品はネーデルラント絵画全体の潮流となり、転換点となったのです。