後世に残る数々の傑作を生み出したミケランジェロ。その影にはメディチ家とローマ教皇の存在がありました。
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
ミケランジェロを見出し翻弄したパトロン
ミケランジェロが彫刻家として出発するきっかけとなったのが、ギルランダイオの工房にいた時、メディチ家の彫刻コレクション庭園に出入りすることが許されたことでした。ここで豪華な人=イル・マニフィコとよばれる当主ロレンツォ・デ・メディチと出会います。牧神を彫っていたミケランジェロに「老人だったら歯が欠けていなければ」と声をかけると、次に会ったときにはそのように修正されていたという逸話が残っています。
膨大な図書コレクションもあったメディチ家と縁ができたことで、若きミケランジェロはキリスト教の図像や神話の知識も身につけました。
1492年、ロレンツォ・デ・メディチが亡くなり息子ピエロが跡を継ぎましたが、フランスの軍隊が進軍したことでフィレンツェは大混乱に陥ります。結果的にピエロは追放され、共和国が誕生します。
この混乱期、ミケランジェロは友人と一時ボローニャに逃亡し、男性的で筋肉ムキムキの天使《燭台の天使》、コントラポストのポーズを取る《聖プロクルス》《聖ペトロニウス》という3体の彫刻作品(1494-95年)を制作しています。その後、フィレンツェがフランス軍を受け入れて落ち着いた頃、フィレンツェに戻りました。
戻ってすぐに彫ったのが《眠れるクピド》(消失)という作品で、これを土に埋めて古代彫刻に見せかけました。この像を購入したのがローマの枢機卿ラファエーリ・リアーリオでした。明らかに詐欺ですが、真実を知った枢機卿は、ミケランジェロの才能を評価してローマに呼び寄せます。
ローマでは後にローマ教皇ユリウス2世となり、ミケランジェロの最大のパトロンとなるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿や、サン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》の注文主ジャン・ビレール・ド・ラグローラ枢機卿らと知り合います。
その後、前回紹介した《ピエタ》や《ダヴィデ》によって芸術家として名を馳せたミケランジェロに、ローマ教皇ユリウス2世は自分の墓碑を作らせようと、1505年、ミケランジェロをローマに呼びました。
ルネサンスの時代においては、墓碑彫刻は芸術家の腕を発揮する大きな対象でした。大型で壮大なものが主流で、教皇の墓碑も計画では高さが8メートル、等身大立像は40体という史上最大級のものでした。
しかし、教皇のわがままに振り回され、計画は縮小されながら、第5案でようやく確定。その間、教皇へ毎日のように資金の提供を訴えたり、教皇が亡くなった後には遺族から訴訟を起こされたりと、長年にわたってミケランジェロを苦しめます。注文を受けてからなんと40年後の1545年、ユリウス2世廟はようやく完成したのでした。
下段中央のモーセ像には角がありますが、これは聖書に「頭が光に包まれていた」という記述の「光」のヘブライ語を「角」と誤訳したためです、しかしミケランジェロは誤訳と知っていながら、あえて角をつけたとされています。
ルーヴル美術館にある《瀕死の奴隷》《反抗する奴隷》(1513-15年)もユリウス2世廟第2案のために制作されましたが、計画がうまく進まなかったため、病気の時に世話になった銀行家に上げてしまいます。ここでいう奴隷とは、新プラトン主義における魂が囚われている状態のことです。これを見ると正確な人体表現から離れ、大理石の中から蠢いて出てくるようなセルペンティナータの表現に変わっていることがわかります。
また、ユリウス2世はシスティーナ礼拝堂天井画(詳しくは次回)を注文し、その完成に満足して除幕式翌年に亡くなります。その跡を継いだレオ10世もメディチ家出身でした。
レオ10世からメディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ教会のファサード(建築物の正面)を依頼されますが、模型まで作った段階で財政状態の悪化を理由に1520年、契約を解除されます。ところが同じ年、今度は教皇の従兄弟のジュリオ・デ・メディチ枢機卿から、同じサン・ロレンツォ教会の墓碑を依頼されました。
計画では4人の墓碑がおさめられる予定でしたが、実現したのはヌムール公とその弟ウルビーノ公のふたりだけでした。正方形の部屋の向かいあう壁面にそれぞれの像は置かれ、ふたりはその間にある壁面にある聖母子へ視線を投げかけています。
また、ふたりの像の下には祈りを込めたような「時」を表す寓意的な男女が寝そべっています。これらの彫刻でミケランジェロは、魂の救済と永遠の「時」を示しました。彫刻と建築が見事に調和し、部屋全体がひとつのプロジェクトと化したこの墓碑では、男女の体は引き伸ばされ、捻れ、プロポーションも狂っています。これらの表現が、次の時代のマニエリスムへとつながっていくのでした。