結婚と絵画を確立したブリュッセル時代
1550年代は版画の下絵が中心でしたが、徐々に数は減り、絵画が制作の中心となります。1563年、ブリューゲルは師クックの娘マイケンと結婚します。当時のブリュッセルは貴族が多く暮らし、政治の中心であり、文化や芸術の中心地でもありました。ここでブリューゲルは絵画制作に集中しました。
結婚に関して、面白いエピソードが残っています。
アントウェルペンでブリューゲルは若い娘と同棲していたそうです。その娘が嘘ばかり言うのでブリューゲルは棒にその嘘を刻んでいき、棒いっぱいに嘘が書かれたら結婚を取りやめる約束をして、その通りになったのでマイケンと結婚することになったというのです。マイケンは当時18歳、かなりの年の差婚でした。
ブリューゲルはブリュッセルで一時期、メッヘレン枢機卿グランヴェルの庇護を受けますが、枢機卿が帰郷したのちは農民画や寓意画を多く制作するようになります。「農民ブリューゲル」とも呼ばれるため、農民出身だと誤解されますが、今では市民階級出身で、人文主義者とも親交があった教養のある画家だと考えられています。
ブリュッセルに移ってから子供にも恵まれますが、6年後の1569年、ブリューゲルは病死してしまいます。現存する絵画作品40点余りは、1559年から亡くなるまでの約10年間で描かれています。
ブリューゲルが亡くなった時、長男のピーテル(2世)は5歳、次男のヤンは1歳、ほかにマリアという娘、そしてマイケンのお腹の中には次女カタリーナがいました。
ピーテル(2世)とヤンは後に画家として成功しますが、マイケンの母であり、ブリューゲルにとって姑にあたる、細密画の高い技術を持つ女流画家マイケン・ヴェルフルスト・ベッセメルスが彼らに絵を教えたと言われています。
ピーテル(2世)は工房を構え、父の模写作品を数多く制作しました。そして花や果物といった静物画を得意とし、「花のブリューゲル」と呼ばれるヤンは独自の才能を発揮しました。さらに孫のピーテル3世、ヤン2世、曾孫たちも画家として活躍、ブリューゲル一族は約150年間、その才能を紡いだのでした。
参考文献:
『ブリューゲルの世界』森洋子/著(新潮社)
『ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち』幸福輝/著(東京美術)
『ピーテル・ブリューゲル ロマニズムとの共生』幸福輝/著(ありな書房)
『図説 ブリューゲル 風景と民衆の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』佐藤直樹/著(世界文化社)
『ブリューゲル(新潮美術文庫8)』宮川淳/著(新潮社)
『ブリューゲルへの招待』小池寿子・廣川暁生/監修(朝日新聞出版)
『芸術新潮』2013年3月号・2017年5月号(新潮社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて―』図録(朝日新聞社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展公式ガイドブック(AERA Mook)』(朝日新聞出版)
『ブリューゲル展 画家一族150年の系譜』図録(日本テレビ放送網@2018) 他