キリスト教の聖人や聖女を描いた宗教画と、市井の貧しい人々や賭博の詐欺の現場などを写実的に描いた風俗画……ラ・トゥールの聖と俗、光と闇の対比の中に描かれた人物表現は、観る者を魅了します。今回は「夜の情景」「昼の情景」の傑作を紹介しましょう。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《大工の聖ヨセフ》油彩・カンヴァス 137×102cm パリ、ルーヴル美術館

「夜の情景」の傑作と画家が好んだマグダラのマリア

 ラ・トゥールの作品は、画面の外から全体に強い光を当てた「昼の情景」、ロウソクやランタンなど、画面内の光源が放つ限られた光によって人物が浮かび上がる効果を用いた「夜の情景」に大別されます。光の効果を駆使した「夜の情景」の作品には、他の追随を許さないラ・トゥール独自の世界が構築されています。それが今日のラ・トゥールの世界的名声の源となっていると言えるでしょう。

 一方の「昼の情景」も世俗の情景をみごとに描き出しています。また、当時の民衆の考え方や宗教的な思想を反映させ、作品を求める人々の期待に応えて描き分けていたと考えられます。

 全く異なる様式に見える「昼の情景」「夜の情景」の表現は、ラ・トゥールの画家としての技法や写実の追求、形態に対する鋭敏な感覚があってこそできたことでしょう。ふたつの表現はそれぞれ、ラ・トゥールの大きな魅力です。

「夜の情景」は、ろうそくやランタンの光を導入することで、写実を通して人間の本質を浮き彫りにしようとするものです。

「夜の情景」の代表作のひとつが《大工の聖ヨセフ》です。ロウソクを持つ幼子イエスと、養父ヨセフが十字架を暗示させる厚い木材に錐で穴を開けている様子が描かれています。幼子の手は、焔を守っています。沈黙と精神性を表現するために、褐色の色調を効果的に用いています。表現の特徴から、1640年頃の作品だとされています。聖ヨセフのシワの刻まれた額、力強い腕など写実的な表現と、焔に照らされた幼子の輝かしい表現の対比が素晴らしい作品です。

 夜の情景を描いた作品の傑作と挙げられるのが「マグダラのマリア」です。ラ・トゥールは同一のテーマで何点も描くということが特徴のひとつでした。現存する作品でいちばん好んで描かれた主題がこの「マグダラのマリア」です。同じ構成に若干の変更を加えた何点かのバージョンが少なくとも8点描かれたことがわかっています。

 現存する真作は《ゆれる炎のあるマグダラのマリア》、《灯火の前のマグダラのマリア》、《ふたつの炎のあるマグダラのマリア》、《鏡の前のマグダラのマリア》、《書物のあるマグダラのマリア》の5点とされています。いずれも暗い部屋の中でロウソクやランタンを灯し、アトリビュート(人物を特定するための持ちもの)である髑髏(どくろ)を手にしています。

 マグダラのマリアは贅沢や肉欲で身を持ち崩した罪深き女で、キリストが七つの悪霊を追い払って救い、のちにイエス復活の最初の目撃者にもなりました。絵画では贅沢な装身具を捨てて、涙を流して悔悛する姿が多く描かれてきました。しかし、ラ・トゥールのマリアはすでに世俗を離れ、死を思って瞑想しているようにも見えます。

 売春婦を更生させるのにふさわしいテーマだったため、女子修道会の依頼で修道院や教化施設などのために制作されたと考えられています。こうした需要が高かったため、1641年には当時としては大金の300フランで売却されたという記録もあります。

《ゆれる炎のあるマグダラのマリア》油彩・カンヴァス 118×90cm ロサンゼルス、カウンティ・ミュージアム
《灯火の前のマグダラのマリア》油彩・カンヴァス 128×94cm パリ、ルーヴル美術館

《ゆれる炎のあるマグダラのマリア》、《灯火の前のマグダラのマリア》はほぼ同じ構図で、聖書、十字架、縄の鞭が描かれ、マリアが腰に巻いた結び目のある縄は、フランチェスコ会修道士がつけるものということから、修行中であることがわかります。

《ふたつの炎のあるマグダラのマリア》油彩・カンヴァス 134×92cm ニューヨーク、メトロポリタン美術館
《鏡の前のマグダラのマリア》油彩・カンヴァス 113×93cm ワシントン、ナショナルギャラリー

《ふたつの炎のあるマグダラのマリア》、《鏡の前のマグダラのマリア》では虚しさを象徴する鏡が描かれ、それぞれ髑髏とロウソクが写っています。

《書物のあるマグダラのマリア》油彩・カンヴァス 78×101cm 個人蔵

 署名がある《書物のあるマグダラのマリア》のマリアは全裸に近い姿ですが、官能性は感じられません。髑髏を両手で包み込み、無言で対話をするような姿は神秘的です。この作品の単純化された人物を見ると最後期と思われますが、肉付きの良い顔立ちや静物の自然主義的描写から1630〜32年の制作とする研究者もいます。