第二電電設立総会。稲盛が中心となり、第二電電企画(現KDDI)を設立する(写真提供:京セラ)

 20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。

 年輪を重ね、肥大化した企業が、どのようにして成長エンジンに再点火し、さらなる高みを目指し、坂道を登っていくのか。今回は、KDDIの前身となる第二電電の立ち上げに向けた稲盛の歩みを追っていく。

第二電電(通信事業)への進出経緯

 1980年代半ば、京セラは売上2500億円を超え、従業員は1万5000名に達しようとしていた。順風満帆に見えたが、稲盛は危機感を抱いていた。発展を遂げた企業に潜む踊り場の前兆がうかがえたからであった。

 創業から25年が経過し、大企業に成長した京セラ。社員一人一人から、かつての躍動感が次第に失われていく中にあって、一人稲盛の胸中には、熱い思いが渦巻いていた。壮大な新規事業を展開することで、果敢に挑戦するスピリッツを組織に再燃させることができるだろう。稲盛は、「飛び石」であろうとも、通信事業への進出を決意していた。

 稲盛が通信事業に進出する契機は、1981年3月に発足した第二次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」にさかのぼる。さまざまなテーマが議論されたが、1982年7月の基本答申で、日本電信電話公社の民営化、また電話電信事業への新規参入を進める方針がうたわれた。いわゆる通信の自由化である。