歌川豊国『和田合戦図』
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
北条泰時の失敗
鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時(1183~1242)と言うと「守成の人」であり、戦とは余り縁のない人物と思われるかもしれませんが、そうではありません。泰時の初陣と考えられるのが「比企能員の変」(1203年9月)です。
2代将軍・源頼家に娘を嫁がせ、外戚として権勢を握らんとする有力御家人の比企能員。頼家の母は、北条政子ですが、比企氏の台頭に危機感を募らせたのが、北条時政(政子の父)でした。時政は、頼家が重病の最中に「クーデター」を敢行。能員を謀殺し、併せて、比企一族にも攻撃を加えるのです。
比企一族とその家臣らは、一幡(頼家と能員の娘との間に生まれた男子)と小御所に籠り、北条氏らの攻撃に備えていました(9月2日)。小御所を攻囲する武将の中に、北条泰時の姿もありました。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には、比企氏の変における泰時の活躍などは記されていませんが、小規模ながらも戦というものがどのようなものか、泰時はこの時、知ったと思われます。
泰時の戦振りが『吾妻鏡』に記録されているのが、和田合戦(1213年)と承久の乱(1221年)です。
先ず、前者から。初代侍所別当(長官)を務める和田義盛は、北条義時(泰時の父)と対立し、ついに反乱を起こします。5月2日、将軍御所を襲撃する和田軍。その報せを聞いた泰時は、素早く鎧兜を着けて、馬上の人となったのかと思いきや、そうではありません。前日に酒宴があったため、2日朝、泰時は二日酔いの状態にあったのです。よって相当の無理をして、泰時は鎧兜を着け、馬に乗ったのでした。
馬に乗ったは良いが、未だ酔いは残り、茫然とする有様。この時、泰時は今後は断酒すると「誓願」しました。二日酔いの状態ではありましたが、和田軍と戦う泰時。段々と喉が渇いてきます。どこかに飲み水はないかと探す泰時に小筒を差し出したのが、武蔵国の武士・葛西六郎。が、六郎が提供した筒に入っていたのは水ではなく、酒でした。泰時は酒であることに気が付きながらも、喉の渇きに負けて、これを飲んでしまいます。先ほどの断酒の誓いを破ったのです。
和田合戦終結直後、泰時は邸に参集した武士たちを前に、これまで述べてきたことを話した上で「人の心など定かではない。但し、今後は大酒は控えることにしよう」と懺悔するのでした。二日酔いの状態のまま出陣したということは、武将にとって、褒められたことではないでしょう。しかし、泰時はその事をありのままに公にする。自らの失敗を封印するのではなく、皆の前で口にすることは勇気がいることです。しかも泰時は一介の武士ではありません。2代執権・義時の後継者なのです。失敗を語るのに、よりハードルが上がる立場ではあります。






