写真提供:共同通信社

 京セラと第二電電(現KDDI)の創業者であり、78歳で日本航空会長に就任してJAL再建を果たした稲盛和夫氏。昭和、平成、令和と3つの時代を駆け抜けた90年の人生は、まさしく「新・経営の神様」と呼ぶにふさわしい。「アメーバ経営」で知られる独自の経営哲学は、2022年に他界したのちも多くの経営者やビジネスパーソンに影響を与えている。本連載では、『一生学べる仕事力大全』(致知出版社)に掲載されたインタビュー「利他の心こそ繁栄への道」から内容の一部を抜粋・再編集し、稲盛氏が自身の人生と経営について語った言葉を紹介する。

 今回は、ビジネス人生の原点となったサラリーマン時代の自己改革を振り返る。

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2024年4月4日)※内容は掲載当時のもの

もし松風工業を辞めていたら

――稲盛名誉会長の人生と経営の原点を探っていきますと、やはり松風(しょうふう)工業に入社されたことが大きかったと思うのですが、いかがでしょうか?

 そのとおりです。私の半生を振り返ってみますと、幼い頃に結核を患ったり、中学受験に二度失敗したりと、決して恵まれた、順風満帆な人生ではありませんでした。

 私は大学時代、よく勉強していたので、成績は比較的よかったんです。けれども、当時は就職難で、就職先をいっぱい探したものの、書類選考で外れるとか面接で落とされるとか、大企業は全部採用してくれませんでした。

 そういう中で拾ってくれる会社が京都にございましたので、昭和30年、地元の鹿児島大学を卒業して、松風工業という碍子(がいし)を製造する会社に入ったんです。

碍子:電線とその支持物との間を絶縁するために用いる器具。

 しかし、そこも決して華やかな会社ではなく、毎月のように給料は一週間ほど遅配する、いまにも潰(つぶ)れそうな赤字会社でした。ですから、最初のうちは大変不満を持っていました。