日光山輪王寺 逍遥園 写真/photo_sada/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

実朝は、生け捕るように命じたが…

 3代将軍・源実朝の治世である建暦3年(1213)9月19日、1つの不穏な噂が、実朝の耳に届けられます。それは、栃木・日光山(輪王寺)の別当(長官)・法眼弁覚が使者を鎌倉に走らせ、報せたものでした。弁覚は「亡き畠山次郎重忠の末子・大夫阿闍梨重慶が、当山の麓に籠り、牢人を集めています。また、彼は祈祷を懸命にしております。重慶が謀叛を企んでいることは間違いないかと」ということを伝えたのです。

 畠山重忠は、武蔵国の有力御家人であり、幕府創業に大きく貢献しましたが、源頼朝死後、北条時政に謀叛の疑いをかけられて、討伐・敗死していました(1205年、畠山重忠の乱)。その末子・重慶に、今度は謀叛の疑いがかけられたのです。

馬を背負う畠山重忠の銅像 写真/フォトライブラリー

 この事態に、実朝はどう対応しようとしたのか。側にはちょうど、長沼宗政という武士がいたので、宗政に重慶を生け捕るよう命じたのでした。宗政は、下野国(栃木県)小山荘を本拠とする小山政光の子として生まれ、兄には小山朝政がおりました。

 宗政は、命令を受け、一度、家に帰ると、家子1人、雜色男8人を引き連れ、下野国に進発したのです(9月19日)。宗政が下野国から鎌倉に戻ったのは、同月26日。鎌倉進発から1週間経った頃でした。

 将軍・実朝は、重慶を生け捕るように命じたのですが、宗政が持ち帰ったのは、何と、重慶の首。実朝は、側近く仕える源仲兼を介して、宗政に次のように伝達します。

「重慶の父・畠山重忠は、咎なくして、謀叛の疑いをかけられ、誅殺されてしまった。その末子の法師(重慶)に、たとえ、陰謀の企てがあったとしても、不思議なことではない。よって、私が命じたことに従って、先ずは、重慶の身を捕縛し、連行して、罪の実否を調べるべきであろう。それなのに、殺害してしまうとは。軽はずみな行為であり、罪深いことだ」と。

 実朝は宗政を叱ったのです。こうなると、普通ならば「恐縮です」「ごもっともでございます」と、平伏しそうですが、宗政は違いました。目に怒気を含み、実朝の使いとして来ていた源仲兼に幕府御所で、こう言い放ったのです。