スパイ疑惑をかけられた?
長徳元年(995)4月、定子の父・関白藤原道隆が死去すると、政権は、道隆の弟・藤原道長の手に移った。
翌長徳2年(996)、定子の兄・藤原伊周の従者が、花山院に射掛けるという大事件を起こし、伊周とその弟の竜星涼が演じる藤原隆家が、配流となった。いわゆる「長徳の変」である。
定子は後ろ盾を失い、自ら髪を切って出家したという(『栄花物語』巻第五「浦々の別」)。
このとき、定子は懐妊していた。
懐妊中の定子に、不幸が重なる。
翌長徳2年(996)6月、居所である二条北宮が焼失。同年10月には母・高階貴子が薨去してしまった。
定子が出家しても、一条天皇の定子への寵愛は変わることはなく、翌長徳3年(997)6月に、定子を宮中に呼び寄せている。しかし、これは、「天下甘心せず(天下は感心しなかった)」という(『小右記』長徳3年6月22日条)。
一方、清少納言は、『枕草子』「殿などおはしまさで後」の段によれば、長徳の変の後、女房たちから「道長方に内通している」という噂を立てられたため、久しく私邸に引きこもっていたという。
『枕草子』の執筆は、このときに始められたともいわれる。
定子の死
やがて、清少納言は定子のもとに戻った。
定子の出家と実家の没落を受け、一条天皇の後宮には、すでに三人の大臣が娘を入内させていたが、藤原道長も長保元年(999)11月1日に、見上愛が演じる娘の彰子(988~1074/母は黒木華が演じる源倫子)を入内させた。彰子はまだ12歳であった。のちに紫式部が仕えたのは、この彰子である。
翌長保2年(1000)2月、道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)を決行した。
だが、この一帝二后の状態は、長くは続かなかった。
同年12月、定子が、第三子となる皇女・媄子を出産した翌日に、25歳の若さで崩御したからだ。
定子の逝去をもって、清少納言も自ら宮仕えを辞したとされ、その後の動静については諸説がある。
なお、紫式部が彰子に出仕したとされる寛弘3年(1006)ごろには、上記のように、清少納言が仕えていた定子はすでに亡くなっているため、二人が宮中で直接、会う機会はなかったという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。