つかの間の危機脱出
富太郎の困窮を見かねた土方教授は、当時の帝国大学の総長・浜尾新
(はまおあらた)に冨太郎の給料を上げるように掛け合った。
その結果、「大学で植物誌を作り、それを富太郎に編纂させ、特別に手当を出す」ということに決まったという。
その植物誌が、明治33年(1900)から発刊がはじまる『大日本植物誌』である。
また土方と田中光顕らの尽力により、同じ土佐出身の三菱財閥の岩崎氏が、富太郎の借金を清算してくれた。
こうして富太郎は、当面の経済的危機を脱した。
冨太郎は、「『大日本植物誌』を終生の仕事とし、世界に誇れるものにしようと意気込んだ。
そして、『大日本植物誌』のみならず、『日本植物禾本沙草植物図譜』、『日本羊歯植物図譜』などの著作を、続々と出版していった。
植物採集会
また明治時代の後半ごろから、一般の人々にも、だんだんと植物への関心が広がっていき、日本各地で植物採集会や講演会が開催されるようになると、冨太郎のもとには、こうした植物採集会や講演会などの講師の依頼が舞込むようになった。
冨太郎が指導する採集会や講習会は、大好評であった。
なにしろ知識が豊富で、植物の学名や和名、その由来、類似植物との違いなど、何を訊いても、よどみない答えが返ってくる。しかも、話術が巧みでユーモアがあった。
富太郎には全国から講師の依頼が殺到したという。
松村教授との対立
富太郎は研究の成果を、『植物学雑誌』にどんどんと発表していった。『植物学雑誌』は富太郎が、明治20年(1887)に植物学教室の染谷徳五郎と市川延次郎とともに創刊した(第3回参照)
冨太郎の自叙伝によれば、これは松村任三教授のお気に召さなかった。
松村は冨太郎に、雑誌への投稿を自重するように促した。
それでも、冨太郎は研究成果を発表し続けた。
「松村教授の下で働いてはいるが、師弟関係はない。気兼ねする必要も、情実で学問の進歩を抑える必要もない」というのが、富太郎の言い分である。
以前に松村教授の夫人から持ち込まれた縁談を断わったことでも気分を害しており、松村は冨太郎を目の敵として、圧迫を加えてくるようになったという。