助手の罷免と、講師としての復活

 松村教授の反対により、『大日本植物誌』が発行されても、冨太郎に特別手当は支給されなかった。

 冨太郎一家は再び困窮し、またもや借金に頼るようになる。

 それだけではない。

 明治43年(1910)、冨太郎は、東京帝国大学理科大学(明治30年に帝国大学理科大学から改称)の助手を、罷免(休職とも)されてしまう。冨太郎いわく、冨太郎を邪魔に思う松村が、新しく学長に就任した桜井錠二博士を焚きつけたのだという。

 だが、冨太郎は挫けなかった。

 同年4月、東京帝国大学理科大学の植物取り調べ嘱託となり、翌明治44年(1911)には、千葉県立園芸専門学校(千葉県松戸市)の嘱託として講師となった。この年には、冨太郎を会長とする東京植物研究会(のちの東京植物同好会)が創立されている。

 冨太郎の罷免に対して反対運動も起きており、明治45年(1912)、冨太郎は「講師」として、大学に復帰を果たした。

 講師に任じられたことで、植物取り調べ嘱託は解かれたが、月給は30円に上がった。

 

青年素封家・池長孟の支援

 その後も冨太郎は研究成果をあげていき、「世界的植物学者」と呼ばれる一方、資料の購入などの研究費や生活費が賄いきれず、借金は増え続けていった。

 大正5年(1916)には、3万円余り(現在の6~7千万円程度とされる)にも嵩み、返済するには、冨太郎が心血を注いで集めた植物標本を、海外の研究機関に売却するしかないほど,追い詰められていた。

 だが、冨太郎の困窮が新聞に掲載されると、神戸の青年素封家・池長孟が援助を申し出て、借金を清算。

 貴重な標品の海外流出は回避された。