帝国大学理学大学の助手に

 一方、冨太郎は、明治24年(1891)11月から、家業が不振となった実家・岸屋の財産整理のため、佐川に帰省していた。

 冨太郎は番頭の井上和之助に譲り、自分は東京で植物研究に打ち込むことに決めたという(佐川町立青山文庫『牧野冨太郎からの手紙 第1巻』)。

 そんなおり、冨太郎の自叙伝によれば、郷里にいる富太郎のもとに、矢田部の後任として植物学教室の主任教授に就任した松村任三から、「助手として雇用するので、上京するように」という手紙が届いた。松村任三は、田中哲司演じる徳永政市教授のモデルと思われる。

 翌明治26年(1893)1月、冨太郎は上京し、帝国大学理科大学嘱託、臨時雇いを経て、9月に助手に任じられた。

 富太郎は、日本最高学府の大学助手となったのだ。冨太郎は31歳になっていた。

 

月給15円

 主任教授・松村任三の下、冨太郎は助手として勤務し、本格的な植物研究を再開することとなった。

 冨太郎は大学からの命令を受け、明治26年に京都府、愛知県、岐阜県、高知県、翌明治27年(1893)には京都府、愛知県、滋賀県、静岡県、明治29年(1896)には台湾に出張するなど、各地で植物採集を行なった。

 しかし、助手になったとはいえ、お金の心配をせずに、研究に専念できるようになったわけではない。

 富太郎の月給は15円だった。これは諸説あるが、現在でいうと約15万円だという(30万円とする見方もあり)。

 実家からの援助もなくなり、壽衛との間に子どもが次々と生まれた(死産を含め合計13人)。

 しかも冨太郎は、研究に必要なものは値段を気にせず、ドシドシと購入していく。特に書籍への執着は凄まじく、植物と名がつけば、どんな本でも買い漁ったという。

 これでは、とても月給15円で暮らすことはできない。

「坊ちゃん育ちで、金銭に鷹揚」と自ら称する冨太郎は、「大学に勤めていれば、なんとかなるだろう」と借金を重ねていった。借金の大部分は、書籍代が占めていたといわれる。

 

膨れあがる借金

 ドラマで浜辺美波演じる妻の寿恵子が、赤旗を出して借金取りがきたことを万太郎に合図し、強面の借金取りと堂々と渡り合うシーンが描かれていたが、壽衛も借金取りの応対を、一手に引き受けていた。

 壽衛にかかると、「利息も払わないとは何事だ!」と息巻いていた高利貸しすら、最後には皆、「それはお気の毒だ。相済まなかった」と笑顔で帰ったという。ドラマの寿恵子と同じように、壽衛も才覚と人を惹きつける魅力の持ち主だったのだろう。

 しかし、借金は増え続け2~3年のうちに、2000円に膨れあがったという。

 この窮地を救ったのが、冨太郎と同郷の二人、帝国大学法科大学の教授・土方寧と、宮内大臣を務める田中光顕であった。