壽衛の死

 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が勃発した。富太郎はこのとき、渋谷の荒木山にいたという。

 幸いにも牧野家は、多少の瓦が落ちたくらいの被害で済んだ。

 しかし、壽衛は標本を火災などから守るため、郊外に住んだ方が良いと考えた。

 壽衛は奔走し、大正15年(1926)、北豊島郡大泉村(東京都練馬区東大泉)に居を構えた。

 富太郎64歳、壽衛52歳のときのことである。

 この地は富太郎の終の住処となり、現在は牧野記念庭園となっている。

 権威を嫌う富太郎だが、昭和2年(1927)、ついに友人たちの説得に応じて学位請求論文を提出し、理学博士の学位を得た。牧野富太郎博士の誕生である。

 壽衛もさぞかし喜んだだろう。

 苦労が報われつつあった壽衛であるが、翌昭和3年(1928)2月23日、54歳で死去してしまう。

 富太郎は壽衛の死を悼み、前年に仙台で発見した新種のササに「スエコザサ」と命名して、その名を永遠に残した。

 

世の中のあらむかぎりやすゑ子笹

 最後に、壽衛亡きあとの富太郎の人生を、簡単にご紹介しよう。

 昭和14年(1939)、富太郎は東京帝国大学講師を辞任。昭和15年(1940)には、『牧野日本植物図鑑』が出版された。

 昭和23年(1948)には、皇居にて、昭和天皇に植物学をご進講している。

 昭和26年(1951)には、第1回文化功労者となり、文化年金50万円が支給されることとなった。

 昭和28年(1593)には、東京都名誉都民の第一号に選ばれている。

 この年の末から体調を崩しはじめ、幾度も死線をくぐり抜けた末に、昭和32年(1957)1月18日、ついに永遠の眠りについた。享年94、まさに、植物とともにあった人生であった。

 富太郎は谷中墓地(東京都台東区)に、壽衛と並んで葬られた。

 壽衛の墓石の側面には、富太郎が詠んだ

 家守りし妻の恵みや我が学び
 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹

 の句が刻まれている。

 富太郎の邸宅跡は、牧野記念庭園となった。

 園内の富太郎の胸像の周りには、スエコザサが生い育ち、訪れる人々を迎えている