陸遜に敗れた曹休

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

曹操の期待、若いとき『我が家の千里駒』と言われた武将とは?

 魏の武将のうち、曹操が若い頃から特に注目していた者があります。その名は「曹休」です。彼は曹操の甥にあたりますが、10代のときに父を亡くし、自らその亡骸を葬るなど、厳しい青年期を過ごした人物です。

 曹休が曹操に出会った時、曹操は「これは我が家の千里の駒だ」と左右の者に言いました。千里の駒とは、1日に千里を走り抜けることができる名馬という意味です。以後、曹休は若くして曹操軍の中核となり、重要な戦場で大任を任されていきます。

 217年の蜀との戦いでは、蜀の武将だった呉蘭を敗死させて張飛を撤退させています。以後は曹家の親族として、魏軍内部でも中心的な役割を果たしていきます。曹休は曹操の死後(220年)も活躍を続け、曹丕、曹叡の時代まで武将として戦い続けます。しかし、228年の対呉侵攻作戦で敵の計略に騙されて大敗します(この敗戦ののちすぐに病没)。

 曹操は、曹休の果断な性格と臨機応変の才を高く評価していました。しかし、残念ながら曹家の千里駒は、(曹操の死後)武将として晩節を全うできずに世を去ることになりました。