写真/伊藤信
観光客数の伸び率全国一といわれる石川県。ご当地自慢の北陸・加賀温泉郷の一つ、山中温泉は、1300年前に行基が発見した由緒を持つ温泉町だ。主な観光名所は、大聖寺川に沿って散策できる鶏仙渓。メインストリートの「ゆげ街道」には、昨今、どこの観光地にも蔓延する、けばけばしいスナックスタンドや歓楽施設の看板がない。自然とローカルな空気とがあいまった、落ち着きのある温泉街の雰囲気は、今や希少価値だ。
山中温泉「ゆげ街道」の情緒ある風景。電信柱はなく、歩道が広くて歩きやすい
昭和の拡大路線に背を向けた異端の宿
この山中温泉に、伝説の旅館「かよう亭」がある。
「かよう亭」のエントランスには、九谷焼の窯元で使われていた円柱形の窯道具「さや」が敷き詰められている
1万坪の敷地に、部屋数はたった10室。全室、自然林の緑に手が届きそうなフォレストビューだ。和室には格式があり、露天風呂には温泉がとうとうと掛け流しされ、渓流のせせらぎが耳に心地よい。
銘材がふんだんに用いられている客室
昼も夜も爽快な露天風呂。風呂付きの部屋あるいは大浴場で、入浴と森林浴が楽しめる
館内のロビー、廊下には、豊かな質感の銘木が使われ、中国の古美術や人間国宝の作品がさりげなく飾られている。廊下は畳敷きになっていて、スリッパを履かずに歩くと、足当たりが心地よい。
廊下は畳敷き。館内のあらゆる部分から昭和の高級旅館の風格が
この宿は昭和53年のオープン。スモールラグジュアリーホテルの草分けとも言えるが、実は当初は、時代に逆行する異端の宿だった。
失われた自然と風土の復興をめざした先見の明
オーナーの上口昌徳氏は1932年生まれ。東京の大学で経済学を専攻。ホテル学校で学んだ後、父が経営する54室200名収容のホテルの運営に携わった。時は高度経済成長期。各地で団体向けの大型ホテルが建設され、父もその拡大路線を歩んでいた。そこに、日本経済を揺るがす昭和48年のオイルショックが到来した。上口氏は、拡大一辺倒で来た旅館業界の未来に疑問を抱く。
「当時の日本は、繁栄を謳歌しているようでしたが、私は、資本主義が近代社会に果たす役割はもう終わると考えました。自分が東京に住んでみて、都会の虚しさも実感しました。自然に畏敬の念を持つ、自然に生かされているという哲学を持つことが、人生においても観光においても、一番大事だと思うに至ったのです」
「自然に生かされた生活空間としての日本の宿。これが都市の人たちの憩いの場になれば」と上口氏
日本の風景、風土、そして故郷・山中の文化を五感で感じられる宿。質を極めるには、10室が限界だ。自分にとっての理想の宿を構想した上口氏は、破格の行動に出る。両親が旅行で留守の間に、ホテルを休業してしまったのだ。父親は激怒。時代に逆行する上口氏の計画に、銀行も融資を渋った。困難の末に昭和53年に開業した「かよう亭」は、5年は閑古鳥がなくあり様だった。
しかし、「かよう亭」は、文化人や通人好みの名旅館として、名を馳せてゆく。宣伝は一切せず、7割がリピーターだ。
