絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵)
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
討幕を決意した尊氏
足利尊氏は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将です。室町幕府の初代将軍として、その名を歴史に刻んでいますが、尊氏とはどのようなリーダーだったのでしょうか。
先ず、尊氏は嘉元3年(1305)、鎌倉幕府の御家人・足利貞氏の子として生を受けます。母は、貞氏の側室・上杉清子でした。成長した尊氏は、鎌倉幕府の執権・北条氏の一族の娘(赤橋登子)を正室に迎えることになります。世が平穏であったならば、尊氏は鎌倉幕府の有力御家人として、その一生を終えたことでしょう。
しかし、尊氏の前半生は、後醍醐天皇による倒幕運動が活発化する時に当たっていました。正中元年(1324)には、後醍醐天皇は幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、側近の日野資朝らが処罰されています(正中の変)。それでも後醍醐天皇は倒幕を断念せず、元徳3年(1331)には再び行動を起こすのです(元弘の乱の勃発)。が、後醍醐は捕縛され、隠岐島に配流となります。
倒幕派にとっては危機的状況ですが、倒幕の気運は衰えず、諸国で倒幕派(例えば、楠木正成や赤松円心)の武将が挙兵するのでした。
尊氏は、北条高時より、倒幕派を討つべく西国に出兵せよとの命令を受けます。ところが命令が下った時は、貞氏の死去から程ない時であり、仏事の沙汰にも及ばない頃でした。悲しみが癒えないような時に進発命令を下す北条氏に足利氏は深い恨みを抱いたと言われます。
そのような時に、後醍醐天皇からの倒幕の綸旨(天皇の意向を受けて発給される文書)を受けて、尊氏は鎌倉北条氏を裏切る決意を固め、丹波の篠村八幡宮において挙兵するのです。尊氏の軍勢は、六波羅探題(鎌倉幕府の西国組織)を攻撃。その際、多くの者は「この大軍にて、時刻を移さず、城郭を囲み、悉く敵を討ち取るべき」ことを尊氏に勧めたとされます。






