出世作「聖マタイ伝」と逃亡生活

 初期にもいくつか宗教画の作品がありますが、デル・モンテ枢機卿の口利きでサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂のための「聖マタイ伝」連作を制作したことによって、画家人生は大きく開けます。礼拝堂の左に《聖マタイの召命》、右に《聖マタイの殉教》(ともに1600年)が公開されると大評判となり、教会や貴族からの注文が殺到し、イタリア中にカラヴァッジョの名は広まりました。1602年には中央に置かれる《聖マタイと天使》を描き、三部作となっています。それぞれの作品については次回、紹介します。

ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂に設置されている「聖マタイ伝」三部作 カラヴァッジョ, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 画家としての地位を確立したカラヴァッジョは枢機卿の家を出ますが、生活は徐々に乱れ、喧嘩や警官との諍いで逮捕されることも度々ありました。ライバル画家のジョヴァンニ・バリオーネから誹謗中傷したとして訴えられたり、女性を巡る争いで相手の頭を背後から斬りつけ、ジェノヴァに逃げたりしたこともありました。こうしたトラブルはエスカレートし、1606年、かねてから対立していたグループの若者を賭けテニスの得点争いがもとで殺してしまいます。逃亡したカラヴァッジョには、「いつでも殺してよい」という「死刑宣告」が出され、二度とローマに帰ることはありませんでした。

 以後の逃亡生活においても画家として名を馳せていたことから、制作の依頼がありました。逃亡生活中に描いた作品はこれまでとは違い、さらに闇を強めたものになります。

《慈悲の七つの行い》(1606-07年)、《キリストの笞打ち》(1607年)など、ナポリで制作した作品はナポリの画家たちに強い影響を与えました。彼らはのちにナポリ派と呼ばれます。

 カラヴァッジョはナポリを後にすると、マルタ騎士団の島マルタに渡ります。おそらく騎士団長ヴィニャクールの庇護を求めたのだと考えられています。団長はカラヴァッジョを騎士にしようと尽力しました。マルタでは団長の肖像画《アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像》(1607-08年頃)や、騎士たちの求めに応じた絵、そして大作《洗礼者ヨハネの斬首》(1608年)を残しています。

《アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像》1607-08年頃 油彩・カンヴァス 195×134cm パリ、ルーヴル美術館

 晴れて騎士になったカラヴァッジョでしたが、仲間の騎士と高位の騎士であるベッツァ伯ロドモンテ・ロエロを襲い、大怪我を負わせたことから地下牢に入れられてしまいます。1か月以上経ったある夜、脱獄したことから騎士号は剥奪されました。

 シチリアに向かったカラヴァッジョは聖堂の祭壇画など大きな仕事をしました。ただ、襲われたロエロが手下を使って執拗にカラヴァッジョを探し回ったため、大作《聖ルチアの埋葬》(1608年)なども短期間で仕上げ、メッシーナ、パレルモと転々としながら作品を描き続けます。再びナポリに戻った1609年10月、ロエロの手下に襲われて重傷を負いますが、その後も絵は描き続けました。

 1610年、ローマに帰ろうと数点の絵を持って乗り込んだ船が、悪天候のためローマ手前の港に寄港します。ここでカラヴァッジョは山賊に間違われて数日間逮捕され、その間に絵を乗せたまま船は出港してしまいます。次の寄港地ポルト・エルコレを目指して灼熱の海岸を歩いて向かったカラヴァッジョは熱病にかかり、ポルト・エルコレの修道院で息を引き取ったのでした。享年38歳。不慮の死の直後に待ち望んでいた恩赦が出ます。天才ゆえのなんとも激しい生涯でした。

 

参考文献:
『西洋絵画の巨匠11 カラヴァッジョ』宮下規久朗/著 小学館
『もっと知りたい カラヴァッジョ 生涯と作品』宮下規久朗/著 東京美術
『カラヴァッジョ巡礼』宮下規久朗/著 新潮社
『カラヴァッジョへの旅——天才画家の光と闇』宮下規久朗/著 角川選書
『1時間でわかるカラヴァッジョ』宮下規久朗/著 宝島社
『カラヴァッジョ』ティモシー・ウィルソン=スミス/著 宮下規久朗/訳 西村書店
『カラヴァッジョ』ジョルジョ・ポンサンティ/著 野村幸弘/訳 東京書籍
『芸術新潮』2001年10月号 新潮社
『日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展』(カタログ)国立西洋美術館・NHK・NHKプロモーション・読売新聞社/発行