三条天皇の誕生

 長徳元年(995)正月には、井浦新が演じた関白藤原道隆の娘・原子(一条天皇の中宮・高畑充希が演じた定子の同母妹)が入侍した。

 原子は居貞親王から寵愛されたが、姉・定子の崩御から二年後の長保4年(1002)に亡くなってしまう。

 寛弘7年(1010)2月、居貞親王は、時の権力者である道長の次女・姸子を、皇太子妃に迎えた。

 居貞親王は35歳、姸子は17歳と、親子ほど年齢が離れていた。

 道長としては冷泉系の皇統が存在する限り、婚姻関係を結ばざるを得ず、有力な後見をもつ妻がいない居貞親王にとっても、受け入れるしかなかったという(編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』所収 高松百香「三条天皇――反摂関政治の種をまく」)。

 翌寛弘8年(1011)、いよいよ、居貞親王の長い皇太子時代に終止符が打たれる日が訪れる。

 同年5月、病に倒れた一条天皇は、6月13日、居貞親王に譲位したのだ。三条天皇の誕生である(以後、三条天皇と表記)。

 皇太子には、敦成親王(のちの後一条天皇)が立てられた。敦成親王は、見上愛が演じる藤原彰子(道長の娘)と故一条天皇の間に生まれた子である。

 11歳で皇太子となった三条天皇は、36歳になっていた。

 

道長との対立

 翌寛弘9年(1012)2月、皇太子妃であった姸子は、中宮に立后した。

 三条天皇は姸子を中宮としたものの、四男二女をもうけた藤原娍子も皇后として立后させている。

 娍子の亡父・藤原済時は大納言にすぎず、後見もない娍子が立后するなど、宮廷社会の常識では考えられないことであった。

 だが、三条天皇は寵愛する娍子が産んだ皇子を皇太子にするために、娍子を皇后とする必要があったと考えられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』 西野悠紀子「第四章 藤原道長 ――紫式部と王朝文化のパトロン」)。

 この一帝二后により、三条天皇と道長の間には深刻な亀裂が入り、関係は悪化しという(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。

 やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。

 道長は、産まれたのが皇子でなかったことが不服だったのか、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和2年7月7日条には、「悦ばざる気色、甚だ露はなり」と不機嫌な様子であったことが綴られている。