いじらし過ぎて、疎ましい? 最初の妃・綏子

 皇太子となった居貞親王に、永延元年(987)9月、祖父・藤原兼家の三女の藤原綏子(母は藤原国章の娘/道長の異母妹)が入侍した。居貞親王12歳、綏子14歳の時のことである(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)。

 歴史物語『大鏡』第四巻「太政大臣兼家」によれば、綏子は容姿に優れ、兼家からも大変に可愛がられていた。

 居貞親王も当初は「憎からぬもの」と思っていた。

 だが、居貞親王が、「私を愛しているのなら、『もうよい』と言うまで放さないように」と氷を持たせたところ、手が青黒くなるまで持っていたので、「いじらしさの度が過ぎて、疎ましく思うようになった」という。

 二人の間に子が産まれることはなかった。

 綏子は長徳年間(995~999)頃、為平親王の第二皇子・源頼定との密通が露見し、内裏から退出。

 寛弘元年(1004)2月7日に、31歳で薨去した(『権記』同日条)。

 

二人目の妃 藤原娍子

 永祚2年(990)7月、一条天皇の外祖父として、権勢を誇った祖父・藤原兼家が死去した。居貞親王は有力な後見を失ったことになる。

 翌正暦2年(991)、居貞親王は朝倉あきが演じる藤原娍子(すけこ)を、二人目の妃に迎えた。居貞親王は16歳、藤原娍子は20歳だった。

 娍子は、当時、大納言だった藤原済時の娘だ。

 済時は藤原師尹(兼家の叔父)の子で、当時の公卿社会における序列は第七位。地位も門流もそれほど良くはない(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)。

 だが、居貞親王は娍子を大変に寵愛した。

 娍子は正暦5年(994)に、居貞親王の第一皇子となる敦明親王を出産している。

 翌長徳元年(995)には、娍子の父・藤原済時が死去し、娍子の後ろ盾が完全になくなった。

 それでも、居貞親王の寵愛は続き、娍子は合計で四男二女を産んでいる。

 この娍子の存在が、のちに道長との対立を生むことになる。