短い治世の終わり

 もともと病弱な体質であった三条天皇だが、道長との対立や、内裏がたびたび焼亡したことによる心労からか、眼病を患ってしまった。

『小右記』の長和3年(1014)3月1日条によれば「近日では、片目が見えず、片耳が聞こえない」という状態に陥っていたという。

 道長は、そんな三条天皇に見切りを付けた。道長は皇太子の敦成親王(道長の孫)に譲位するよう、三条天皇に強く迫っていく。

 三条天皇は激しく抵抗したが、退位を余儀なくされ、娍子が産んだ第一皇子・敦明の立太子を条件に、敦成親王への譲位を受け入れた。

 長和5年(1016)正月、三条天皇は皇位を退き、敦成親王が後一条天皇となった。三条の治世は、四年半で終わりを告げた。

 そして、翌寛仁元年(1016)5月9日、三条は42歳で崩御した。

 父・三条の死により後ろ盾を失った敦明親王は、同年8月、自ら皇太子を辞退した。

 代わって皇太子となったのは、後一条天皇の同母弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)である。これにより、冷泉・円融両系の両統迭立は終わった。

 

恋しかるべき夜半の月かな

 最後に、三条天皇が譲位に際して詠んだとされる歌をご紹介したい。百人一首にも収められているので、ご存じの方も多いだろう。

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

(心にもなく、この辛い世の中を生きながらえたのなら、その時は宮中で見たこの美しい月を、きっと恋しく思うだろう)

 目を病んだ三条天皇は、この時すでに月を見ることはできなくなっていたと見られており(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)、この歌を詠んだとされる約一ヶ月後に譲位をしている。

 夜空に浮かぶ月のように、美しくも切ない歌である。