祖母・恵子女王

 花山天皇と叔父・義懐という有力な後見を失ってからも、行成は、それなりに立身している。

 同年(寛和2年)8月には、左兵衛権佐に任じられた。これは当時の若年の公達としては、順当な任官だという(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。

 翌永延元年(987)正月には、祖母・恵子女王の年給により従五位上に叙せられ、同年9月には、再び昇殿(一条期)が許された。

 この背景には、行成の資質や努力のみならず、外祖父・源保光の庇護や(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)、行成の立身のために尽力したであろう祖母・恵子女王の存在があったとみられている(『群馬女子短期大学紀要』第十二号所収 北村章「一条朝四納言の研究ノート(三)-藤原行成の結婚とその周辺-」)。

 恵子女王は正暦3年(992)9月、行成が21歳の時に没した。

 行成は正暦4年(993)正月に従四位下に叙せられているが、任官での不遇は否めなかったという(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。

 

悲嘆のなか、一条天皇の蔵人頭に抜擢

 疫病が大流行した長徳元年(995)は、井浦新が演じる藤原道隆、玉置玲央が演じる藤原道兼が死去し、内覧に任じられた道長の政権が誕生している。

 この年、正月には行成の母(源保光の娘)が、5月には外祖父・源保光が、この世を去っている。行成、24歳のときのことである。

 母と祖父の相次ぐ死に、行成は出家を考えたともいわれる(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)。

 悲嘆にくれた行成だが、大出世を遂げることになる。同年8月、一条天皇の蔵人頭に抜擢されたのだ。

 歴史物語『大鏡』第三巻「太政大臣伊尹 謙徳公」によれば、蔵人頭であった本田大輔が演じる源俊賢(道長の妻・瀧内公美が演じる源明子の兄弟)が公卿に昇進するにあたり、後任に行成を推薦したという。

 蔵人頭は、天皇の秘書官である蔵人が働く蔵人所の長官で、大変な激務である。

 通常は、蔵人頭を2~3年務めると、参議(大・中納言に次ぐ要職)に昇進する。

 ところが、行成はなかなか参議に昇進できず、蔵人頭を7年もの間、務めることになる。

 その理由は、行成があまりにも有能で、実直であるがゆえ、一条天皇が手放したくないと思ったからだという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。