最初の結婚
矢田部は明治11年(1878)2月末、金澤良斎の娘・録(録子)と結婚している。
金澤良斎は岐阜県出身の陸軍医で、勝海舟の家庭医を務めた(佐井村編『佐井村誌』)。
勝海舟の三男・梅太郎と国際結婚したアメリカ人女性・クララ・ホイットニーの日記(『勝海舟の嫁 クララの明治日記』)の明治11年1月31日には、録はとても小柄で、10年以上、英語を勉強していたことが記されている。
なお、このクララの日記には、矢田部もたびたび登場する。クララは矢田部に「梳き上げて、上でまとめた髪型と、金髪が好きだ」と言われたと綴っている。
非職
東京大学の教授となった矢田部は、全国各地へ赴いて植物を採集し、分類、標本化するなど、植物分類の研究に邁進した。
大学の講義は、英語で行ったという。
明治17年(1884)には、牧野冨太郎の植物学教室の出入りを許している。
明治19年(1886)3月に帝国大学(帝国大学令により、東京大学から改称)理科大学教授兼教頭となり、12月には訓盲唖院(東京盲啞学校の前身)の校長を兼任した。
明治20年(1887)10月3日、妻の録が30歳の若さで死去している。
明治21年(1888)3月には、東京高等女学校の校長も兼任となった。
同年5月には理学博士号が授与され、鳩山和夫夫妻の媒酌で、柳田順(シユン)と再婚した。柳田順は、ドラマの田邊教授の妻・聡子のモデルと思われる。
順調にキャリアを重ねていった矢田部だが、明治24年(1891)3月、理科大学教授を非職(身分・地位はそのままで、職務を解かれること)となり、明治27年に免官となった。
だが、矢田部はここで終ったのではない。
明治28年(1892)からは高等師範学校の教授となり、明治31年(1898)4月には高等師範学校附属音楽学校の教授を兼任し、6月には高等師範学校長に任じられている。
ところが、明治32年(1899)8月、夏期休暇中に、ドラマでも触れられたように、鎌倉で溺死した。