外務省を辞任して、コーネル大学に留学
念願の洋行が叶った矢田部であったが、明治5年(1872)9月、ニューヨーク州のコーネル大学の入学試験に合格し、外務省を辞任。
公費留学生となり、日本人として初めてコーネル大学に入学。植物学を専攻した。
ドラマの田邊彰久教授は、中田青渚が演じた妻の聡子に、シダ植物が好きであることを語っているが、在学中、矢田部はシダ植物も研究したとされる(大場秀章編『植物文化人物事典 江戸から近現代・植物に魅せられた人々』)。
矢田部は明治9年(1876)6月、コーネル大学を卒業。理学士号(バチュラー・オブ・サイエンス)の学位を取得し、帰国の途についた。
東京大学理学部の教授に
帰国後、矢田部は同年9月に東京開成学校の五等教授に就任、11月には東京博物館植物園兼務、12月には東京博物館長に任じられた。矢田部は25歳になっていた。
翌明治10年(1877)4月、東京開成学校と東京医学校が合併、「東京大学」に改組されると、矢田部は、東京大学理学部の植物学の教授に任じられた。
理学部における日本人教授は、矢田部を含めてわずか三名であり、他は外国人であった。