高橋是清と親しかった
矢田部が横浜語学所にいたのは、慶応3年(1867)の初め頃までだという。
横浜語学所を出てからの約2年間の動向は、わかっていない(国立科学博物館編『国立科学博物館研究報告 E類 理工学』第39巻 太田由佳・有賀暢迪「矢田部良吉年譜稿」)。
矢田部は明治維新を経て、明治2年(1869)5月、開成学校の教授試補に任じられる。
開成学校とは、官立の洋学校である。江戸幕府直轄の洋学校であった開成所を、明治政府が接収および、改称した。
その後、開成学校は大学南校、南校、第一大学区第一番中学、開成学校、東京開成学校の改称を経て、東京大学の一部となる。
矢田部は同年7月には小助教、翌明治3年(1870)には中助教に任じられた。
小島憲之「開成學校敎授以來の矢田部博士」(『英語青年』21(10)(317)所収)によれば、この頃、矢田部は同校に出入りしていた、のちに日本銀行総裁・蔵相、首相などを歴任する高橋是清と親しかったという。
高橋是清口述の『是清翁一代記』でも、兄弟同様の付き合いであったことが述べられている。
この高橋是清との縁が、矢田部を渡米へと導く。
森有礼に随行し、アメリカへ
高橋是清はかつて、のちに初代文部大臣となる森有礼の書生をしていた。森有礼は、ドラマでは、橋本さとしが演じていた。
その森有礼は、明治3年(1870)、少弁務使としてアメリカ赴任を命ぜられ、渡米することとなった。
『是清翁一代記』によれば、このとき是清は森有礼から、「おまえもできる限りアメリカに、連れていくようにしよう」と告げられた。
ところが是清は、「私よりも矢田部君を連れていってください」と頼み、森有礼に矢田部を紹介した。矢田部はかねてから、熱心に洋行を望んでいたという。
その結果、矢田部は「文書大礼使」に任じられ、外務省の役人として森有礼に随行し、渡米したのだった。矢田部、19歳のときのことである。