幻に終わった世紀の対決

《カッシーナの戦い》カルトンの模写 1542年頃 ノーフォーク、ホルカム・ホール

《ダヴィデ》像の設置場所に関して、レオナルドとのエピソードが残っています。1504年、ボッティチェリやレオナルドなどの芸術家が集められ、設置場所検討委員会が開かれます。ボッティチェリらは大聖堂前やシニョリーア宮殿の中庭という意見でしたが、レオナルドはシニョリーア宮殿の向かいにある回廊を推します。

 すると委員に入っていないミケランジェロが共和国政庁舎の入り口がふさわしいと言ってヴェッキオ宮殿正面入り口を主張、これを委員長が支持しました。そこにはもともとドナテッロの《ユディト》がありましたが、これを移動させて置かれることになります。この時にもレオナルドとミケランジェロの対抗心があったのかもしれません。

 1503年、ヴェッキオ宮殿の大きなホール「五百人広間」の壁画がレオナルドに依頼されます。馬が得意なレオナルドは《アンギアーリの戦い》を描こうと取り組みます。

 その翌年、別の壁面がミケランジェロに託されます。ミケランジェロはレオナルドと同じ騎馬戦の場面を避け、《カッシーナの戦い》の場面を選びました。しかし、レオナルドの絵は彩色中、雨水が流れ込んで下絵が滲んでしまったことで頓挫、一方のミケランジェロもカルトン(画稿)を完成させたところで、教皇からローマに召喚されたため中断してしまい、世紀の対決は実現しませんでした。