初期の傑作《ピエタ》と《ダヴィデ》
ミケランジェロは1474年、執政官の父親の派遣先だったイタリア中部の小さな村・カプレーゼに次男として生まれました。一家はあまり裕福ではありませんでしたが、貴族の出身でした。
母親は体が弱かったので、ミケランジェロは乳母の家に預けられるのですが、その家業が石工だったので、後に「乳と一緒に鎚と鑿を吸った」という冗談をよく言ったそうです。
その後一家はフィレンツェに戻り、ミケランジェロが13歳の時、当時大工房を構えていたドメニコ・ギルランダイオの弟子になります。住み込みで働きながら、才能のある若い芸術家に開放されていたサン・マルコ修道院中庭のメディチ家の彫刻コレクションに出入りすることができるようになったことから、1年ほどで工房を去ります。メディチ家コレクションの古代彫刻や、初期ルネサンスの作品から多くを学び、その後の創作に生かしていきました。
ミケランジェロの彫刻の出世作となったのは、フランス人のジャン・ビレール・ド・ラグローラ枢機卿からの注文でつくった、サン・ピエトロ大聖堂の《ピエタ》(1499年)です。
ピエタは聖母マリアが死したキリストを悼んで憐れむという伝統的なテーマで、キリスト教の宗教的な儀礼などで用いられ、人々が像を前にして祈ったりしていました。
伝統的にサン・ルフィーノ教会の像のようにキリストの体は硬直していて、聖母マリアも美しくは表現されてきませんでしたが、ミケランジェロは美しい聖母マリアと美しい若者のキリストの像を作り上げます。これまでの常識を覆し、伝統的なテーマを革新する表現は、技術的な高さと相まって当時の人々を圧倒します。この時、ミケランジェロは24歳でした。
公開当時、ミラノ人が自慢げに「ミラノの彫刻家クリストフォロ・ソラーリの作品だ」というのを聞いたミケランジェロは、夜中にこっそりマリアの帯に自分の名を刻んだという逸話が残っています。
もうひとつの初期の傑作が《ダヴィデ》(1504年)でした。のちにイスラエルを建国した旧約聖書の英雄ダヴィデが、巨人の敵将ゴリアテを倒すという少年時代の物語がテーマです。初期ルネサンスを代表する彫刻家ドナテッロの《ダヴィデ》(1440年頃)のように、これまでは少年ダヴィデが切り取った首を踏んでいるポーズで描かれるのが伝統的でした。しかし、ミケランジェロのダヴィデは全く違いました。
ルネサンスが目指したのは古代の文化の復興です。そのためドナテッロとミケランジェロのダヴィデ像は古代彫像の特徴のひとつである「コントラポスト」という、一方の足に力を入れ、もう一方の足を緩めたポーズを取っています。ミケランジェロはさらに少年とは思えないような堂々とした肉体と、大きな敵を睨みつけ、エネルギーをぐーっと凝縮させた瞬間を、力強く表現しています。そのためこの作品は「イル・ジカンテ(巨人)」と呼ばれました。
また、この像に使われた大理石は、1464年から大聖堂の彫刻のために用意されていて、初期ルネサンスの巨匠アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョが少し荒彫りをしたまま放置していたものでした。これを1501年に受け継いだミケランジェロは、さまざまな制約があるにもかかわらず、これから力を育もうとする新興国フィレンツェのシンボルにふさわしい作品に仕上げます。
このようにミケランジェロは、伝統的なテーマと表現を用いながらも、常に独自の新しい表現をする革新者なのでした。