●永谷園の強さの理由に迫るシリーズ第1回はこちら

 永谷園を題材にスタートした連載も、おかげさまで4回目を迎えることができた。振り返ると、前回(3回目)前々回(2回目)と、お茶漬けの素にまつわる話を紹介した。しかし、今回も続けてしまうと「また?」「お茶漬けの素なの?」といった声も聞こえてきそうで、今回は少し趣向を変えて話を進めたいと思っている。ただ、連載ということもあり、題材については、もうしばらく永谷園が続くことになる。その点はご容赦を願いたい。

 さて、今回はお茶漬けの素ではなく、“お茶漬け”そのものについて触れたいと思っている。お茶漬けの歴史とともに、永谷園のルーツがお茶漬けの普及、発展に深く関わっていたことなどを紹介したいと思う。なので、今回は読み物として、これまで以上に気軽に読んでもらえるとありがたい。

お茶漬けの原形は、いにしえから食された湯漬けと水飯

 唐突で申し訳ないが、一杯のお茶漬けを思い浮かべてほしい。皆さんがイメージするお茶漬けとは、どのようなものだろうか?

 お茶漬けの素の印象が強いという人も少なくないだろうが、居酒屋をはじめ、飲食店などで出会うお茶漬けは、きっと、このようなイメージだろう。海苔に焼き鮭や梅干、漬物や塩昆布、ちりめん山椒など、それらの具材がご飯にのり、お茶や出汁をかけて食べる。そうしたお茶漬けが一般的ではないかと思う。

 皆さんが思い浮かべたであろう、一般的なお茶漬け。そんなお茶漬けが広く食べられるようになるのは、意外にも新しく、江戸時代の中期以降、後期に入ってからのことになる。

 では、それ以前のお茶漬けとは、どのようなものだったのだろうか? 時はさかのぼり、平安時代。仮名の発達と仮名文の普及により宮廷女流文学が全盛となる時代。この時代には紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』をはじめ、説話文学の『今昔物語集』など、さまざまな文学作品が誕生している。そうした作品の中に、湯漬け、水飯(すいはん)という言葉がしばしば登場する。この湯漬け、水飯がお茶漬けの原形と言える。読んで字のごとしだが、湯漬けとは、ご飯にお湯をかけたもの。水飯はご飯に水をかけたものになる。

 また、当時のご飯は、われわれが口にしているような白米ではない上に、甑(こしき)で蒸し上げた強飯(こわいい)が主流で、硬くて粘り気もないものだったという。つまり、湯漬けや水飯がお茶漬けの原形とは言うものの、その味わいや食感は、皆さんがイメージするお茶漬けとは、全くの別物であったことが容易に想像できるだろう。

 時は進んで、鎌倉時代、室町時代。この時代に入ると、手軽さもあり、湯漬けは武家の間で常食として、好んで食べられたと聞く。特に、室町幕府八代将軍・足利義政は酒に酔った折、ご飯にお湯(※昆布、椎茸で取った出汁)をかけたものを好んで食べていたという故実があり、湯漬けが世間に広まるきっかけになったともいわれている。そして、江戸時代に入ると、湯漬けは香の物から食べ始めること、中のお湯は最後まで飲まないことなど、作法や約束事までつくられるようになる。

 ここまで、つらつらと書き連ねてきたが、そろそろ、皆さんも気付かれていることと思う。まだお茶漬けが登場していないことを。なぜ、お茶漬けが登場しないのかと言うと、その理由はお茶にある。