アルチンボルドは16世紀、オーストリア・ハプスブルク家のフェルディナント1世の治世時にミラノからウィーンへと移り、マクシミリアン2世、ルドルフ2世に仕えた宮廷画家でした。マニエリスムのなかでもひときわ異才を放つ画家が、皇帝たちに寵愛された理由を紹介します。
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世》1590年頃 油彩・板 68×56cm ウプサラ、スコークロステル城
マニエリスムのなかでもひときわ異才を放つ存在
ジュゼッペ・アルチンボルドといえば、《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世》(1590年頃)に代表される「奇天烈な絵(ビザルリ・ピクテュラル)」で有名です。
この絵は画家の晩年の作品で、稀代の芸術愛好家として知られるルドルフ2世(1552-1612年)を、ヨーロッパ各地の67種類もの農作物や果物、花を用いて、四季を司る古代ローマの神ウェルトゥムヌスとして描いています。
どうしてアルチンボルドこのような果物や野菜、草花を組み合わせて人物の顔を描く「寄せ絵」という表現を用いたのでしょう。そこには「マニエリスム」という美術様式の伝播と、アルチンボルドが自然科学に関心が深かったマクシミリアン2世、芸術愛好家のルドルフ2世という皇帝に仕えたことが大きく影響しています。
マニエリスムは、ルネサンスとバロックの狭間に位置する芸術様式で、16世紀中頃から末にかけてイタリアを中心に興りました。その発端は1517年、マルティン・ルターが「九十五箇条の論題」を発表して、カトリック教会の贖宥状(免罪符)の販売を批判したことでした。ルターの主張はヨーロッパ全土を巻き込む一大変革運動へと発展し、政治や文化、思想にまで大きな影響を与えました。また、プロテスタント教会が出現したことでカトリック教会との対立が深まります。
このような背景から、これまでの価値観は崩れ、既存のルールにあえて従わず、社会不安を体現したような芸術様式「マニエリスム」が台頭します。マニエリスムは「手法」「様式」という意味のイタリア語「マニエラ」が語源で、ルネサンス期に追及された正確な人体表現や空間表現は息をひそめ、不自然なほど歪められた身体表現、難解な寓意、非現実的な色彩など、技巧を凝らした人工的な美の追求を特徴としています。マニエリスムの第一世代にはヤコポ・ダ・ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノ、ドメニコ・ベッカフーミがいます。
1527年、神聖ローマ皇帝カール5世が傭兵部隊を派遣し、ローマを攻撃、破壊、略奪した「ローマの劫掠」が起こり、宗教改革と相まってイタリアは大混乱に陥ります。芸術家たちもローマを去ったため、マニエリスムはイタリア各地だけでなくフランスやウィーン、プラハに広がり、やがてヨーロッパ全体で盛んになります。
ルドルフ2世がプラハに集めた芸術家たちも、その影響を受けました。なかでもアルチンボルドは「寄せ絵」による肖像画や、180度回転させてみると全く違う絵になる「逆さ絵」など、技巧を凝らした独自の表現をしました。「度外れた画家(エクストラヴァガンテ・ピクトーレ)」だったアルチンボルドは今日でも、マニエリスムを代表する画家と称賛されています。
《自画像》1575年頃 ペン、青の淡彩・紙 23.1×15.7cm プラハ国立美術館
晩年、プラハから故郷ミラノに戻ってから描いた《ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世》は、それぞれの季節を代表するキビ、ブドウ、メロン、リンゴ、モモ、サクランボ、木の実、クリなど、多種多様な果実や花々がいっせいに盛りを迎えていることから、隆盛を誇る偉大な皇帝であると、ルドルフ2世を讃えているのです。
この絵に人文学者であり詩人のグレゴリオ・コマニーニによる頌詩(人徳や功績などをほめたたえる詩)を添えて献上すると、ルドルフ2世はおおいに喜んだと伝わります。宮廷画家としてオーストリア・ハプスブルク家に仕えたアルチンボルドは、ハプスブルク家と皇帝を讃える寓意をさまざまな絵で表現したのでした。
