故郷ミラノで活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチから多くを学んだアルチンボルド。父親もレオナルドの高弟と交流のあった画家でした。芸術と科学の境界を超え、多面的な活動をしたアルチンボルドは、まさにレオナルドの再来でした。
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
《娼婦としてのフローラ》1591年頃 油彩・板 80.4×60.6cm 個人蔵
ミラノ時代とレオナルドの影響
1526年、アルチンボルドはイタリアのミラノに生まれました。父ビアージョ・アルチンボルドはミラノ大聖堂の造営局で働いている画家で、レオナルド・ダ・ヴィンチの高弟だったベルナルディーノ・ルイーニと親しく、ルイーニが描いたビアージョの肖像画が残っています。
青年期までのアルチンボルドについてはほとんど知られていません。最初の記録は1549年、ミラノ大聖堂のステンドグラスの制作でした。1558年にはコモ大聖堂のためのタピスリーをデザインしたことがわかっています。聖母マリアを描いたこのタピスリーは現在もコモ大聖堂に飾られています。枠を飾っている詳細な植物の描写に、のちの作品の特徴が見て取れます。
《聖母マリアの御眠り》1558年 タピスリー 432×470cm コモ大聖堂
ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチは、1482年から1499年までミラノで過ごし、「グロテスクな頭部の習作」などの素描を残しています。人間の外見は内面の動きに基づき、容姿の特徴はその人物の悪徳と美徳を反映するという思想によって、レオナルドは人物の頭部を豊かな想像力で描きました。アルチンボルドが5歳の時にレオナルドはこの世を去っていますが、追随者の存在などでミラノにはその影響は色濃く残っていました。
レオナルドの弟子で、父親の友人でもあるベルナルディーノ・ルイーニは、レオナルドの素描帳を所有していたこともあり、アルチンボルドはミラノで「グロテスクな頭部の習作」も見たに違いないとされています。これらは後の頭像表現に大きな影響を与えたといわれています。
また、レオナルドはミラノの装飾美術にも影響を与えました。16世紀のミラノは宝石のカットや金銀細工、宝飾品、絹織物といった高度な技術による高級な工芸品が制作されていました。ミラノの工房では宝石を使った金工細工の贅沢品を生産していて、これらは画家が描いた図案をもとに作られ、アルチンボルドもこうした工芸品の図案に関わった可能性は高いと思われます。
レオナルドの追随者が皆亡くなってしまうと、パトロンたちはヴェネツィアのティツィアーノやクレモナのカンピ一族などの芸術家を好むようになり、ミラノの画家たちは困窮します。アルチンボルドをはじめとするミラノの芸術家は、レオナルドの芸術と理念に立ち返ることで改革しようとしました。このようなミラノの状況からも、アルチンボルドの奇想に満ちた創作は生まれたと考えられます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ「5つのグロテスクな頭部の習作」1494年頃 ペン、インク・紙 ウィンザー城、イギリス王立図書館
ミラノ時代のアルチンボルドの制作で、後年、明らかになったことがあります。代表作「四季」は前回紹介したようにマクシミリアン2世への贈り物として1563年に制作されました。この連作がオリジナルとされていますが、現在、ミュンヘンのバイエルン国立絵画コレクションが所蔵する「四季」の連作(《秋》は消失)は、ミラノ時代に描かれたことがわかりました。これまで宮廷の工房で制作されたと思われていたものですが、この連作は1563年に先行してミラノ時代にすでに描かれていたのです。
このことからもアルチンボルドの豊かな芸術性はミラノ時代に培われ、そこから宮廷画家としての成功へとつながったことがわかります。
《春》制作年不明 油彩・板 84×57cm ミュンヘン、バイエルン国立絵画コレクション
《夏》制作年不明 油彩・板 84×57cm ミュンヘン、バイエルン国立絵画コレクション
《冬》制作年不明 油彩・板 84×57cm ミュンヘン、バイエルン国立絵画コレクション
