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 経営破たん後、稲盛和夫氏の経営手腕によって約2年でスピード再建を果たした日本航空(JAL)。その背景には、稲盛氏のどのような経営哲学があり、どのような経営再建術が用いられたのか――。2025年7月、著書『稲盛和夫と二宮尊徳 稀代の経営者は「努力の天才」から何を学んだか』(日経BP)を出版した、ジャーナリストの井上裕氏に、稲盛氏の経営哲学の形成に影響を与えた出来事や、稲盛氏がJAL再建プロジェクトを引き受けるに至った背景について話を聞いた。

「社員の反乱」によって「利他の心」の重要性に気づいた稲盛氏

──著書『稲盛和夫と二宮尊徳』では、稲盛氏が自身の行動原理の根底にある「利他の心」について語るとき、京セラを設立して間もない頃のエピソードを必ず引き合いに出していた、と述べています。具体的にどのような出来事があったのでしょうか。

井上裕氏(以下敬称略) 京セラを創業してわずか2年後、1961年のことです。稲盛氏のもとに、前の年に採用した高卒の社員11人が要求書を持ってきました。そこには複数年の定期昇給とボーナスの保証を求める内容が書かれており、血判までしてあったそうです。

 当時の日本社会は60年安保闘争の余波が色濃く残っていました。また、労働運動が非常に活発で、「権利は自ら勝ち取る」という風潮が社会全体に広がっていました。モスクワで81カ国の共産党・労働者党の世界大会が開かれ、労働者が資本家と闘うという意識が世界的に高まっていた時代です。日本の若い労働者たちもその影響を受け、自分たちの待遇改善を経営者に要求するのは当然だと考えていました。

 稲盛氏にとってこれは大きな試練でしたが、同時に自分が京都セラミックを立ち上げた原点を思い起こさせる出来事だったようです。稲盛氏も8人の仲間と誓いの血判状を作って署名しています。そのため、若者たちから突き上げられる一方で、彼らの気概をどこかうれしく感じたそうです。

 しかし、経営者としては要求をそのまま受け入れるわけにはいきませんでした。当時の京セラは黒字ではありましたが、財務に余裕があるとはとてもいえず、将来の定期昇給やボーナスを約束することは確約できなかったからです。

 そこで稲盛氏は「賃上げの保証はできないが、自分を信頼して付いてきてほしい」と彼らを説得しました。最後まで納得しなかった社員には「もし、お前を裏切ったら俺を刺し殺してもいい」とまで言い切っています。この稲盛氏の言葉に、最後まで抵抗していた社員も折れました。

 この経験は稲盛氏の心境に変化をもたらしました。稲盛氏が京セラを創業した目的は、自らが開発したセラミック技術を世に出し、産業を変革することでした。自分のため、つまり「利己」だったわけです。しかし、社員の反乱の後、稲盛氏は「会社は社員の幸せのためにある」という認識に至りました。

 社員とその家族の物心両面の幸福を実現することこそが経営の目的、と変わったのです。稲盛氏は、このときの心境の変化が「利他の心」を明確に意識した最初だったと振り返っています。