壇ノ浦古戦場跡の源義経像 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2025年1月29日)※内容は掲載当時のもの

「武士達は皆、恨みに思っております」

 源義経の生涯は「判官贔屓」(弱い立場に置かれている者に同情を寄せること)という言葉もあるように、悲劇性を持って語られてきました。平家討伐に大きく貢献しながらも、異母兄の源頼朝に疎まれ、諸国を流浪し、最後には奥州平泉で自刃していく。その落差が、より一層、後世の人々に同情を呼んだのです。いや、後世の人々だけではありません。同時代人も、義経の死を悲しみました。

 文治5年(1189)閏4月30日、奥州の藤原泰衡は、それまで匿っていた義経を突如、急襲します。鎌倉の頼朝は、義経を追討せよということを、朝廷を通して、藤原泰衡に圧力をかけてきました。泰衡の父・藤原秀衡は、義経を「大将軍」として、頼朝にあたるべしとの遺言を子供たちに残して、この世を去りましたが、泰衡は頼朝の圧力に耐えきれず、ついに、衣川館の義経を襲ったのです(頼朝の要求に背けば、朝敵として、泰衡が征伐される恐れがあったからです)。

 泰衡は、数百の軍勢でもって、義経方と合戦します。義経とその家人は、懸命にこれと戦いますが、多勢に無勢、悉く敗北していきます。義経は、持仏堂にて、先ず、妻(22歳)と子(女子4歳)を刺殺。続いて、自らも自害して果てたのです。31歳の若さでした。