謎多き『紫式部日記』
年次不明の断続的記事の次には、寛弘7年(1010)正月1日の、敦成親王と彼の一歳年下の同母弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)の、戴餅の儀の記事が置かれる。
『紫式部日記』には、敦成親王誕生は詳しく記されているが、敦良親王誕生に関しては何も記されていない。その理由も不明である。
そして、同月2日の記事を経て、同月15日に行なわれた、敦良親王の華やかな五十日の儀の記事で、『紫式部日記』は幕を閉じる。
これで完結なのか、中断、あるいは欠けているのか、確かな答は出ていない(以上、宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』)。
『紫式部日記』は、道長の依頼によって書かれた「公的な記録」とみる説があるが、整然と書かれているとは言い切れず、私的な記録でしかないとの見方もあるという(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「第三章 藤原彰子――紫式部が教育した主」)。
冒頭部が欠落しているともいわれる。
多くの謎をもつ『紫式部日記』。
その謎は、ドラマで解き明かされるだろうか。