御覧じては疾うたまはらむ

 消息文的部分では、選子内親王(村上天皇の第十皇女)の女房と彰子の女房の気風の比較や、先に述べた和泉式部や赤染衛門、清少納言への批評(三才女批評)などが記されている。

 あるべき女房の姿を模索し、最後はまるで本当の手紙のように、「御覧じては疾うたまはらむ」(読んだら、すぐに返してくださいね)などと綴りつつ、「この世を生きる自分がまだまだ可愛い。我ながらどうしようというのでありましょうか」と(山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』)と結んでいる。

 

戸を叩いた男は道長?

 消息文的部分を終えると、③【年次不明の断続的記事の部分】とされる、「十一日の暁」で始まる中宮御堂詣の記事となり、「源氏の物語、御前にあるを」で始まる、紫式部と道長および、紫式部と渡殿の戸を叩く者との歌の贈答の記事が続く。

 道長との歌の贈答の記事では、『源氏物語』が中宮の御前にあるのを見た道長が、いつものように冗談を口にしたついでに、梅の実の下に敷かれていた紙に

すきものと 名にして立てれば 見る人の 折らですぐるは あらじとぞ思ふ

(貴女は浮気者という評判ですから、誰もが口説くことでしょう)

 という歌を書いて、紫式部に渡した。

 紫式部は、

人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ

(私は誰にも折られておりません。誰がそんな噂を流しているのですか)

 と、返歌したという。

 また、紫式部が渡殿で寝ていた夜、戸を叩く者がいたという記述が続く。

 恐ろしさのあまり、紫式部は声も出さず一夜を明かしたところ、翌朝、

夜もすがら 水鶏よりけになくなくぞ まきの戸口に たたきわびつる

(一晩中、水鶏にもまして、泣く泣く槇の戸口で、戸を叩き続けながら、思い嘆いたのですよ)

 という、歌が届いた。紫式部は

ただならじ とばかりたたく水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし

(ただごとではあるまいと思うほどに戸を叩きますが、水鶏と同じくそれほどのお気持ちはないでしょうから、戸を開けたなら、悔しい思いをしたでしょう)

(現代語訳 宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』参照)

 と返したという。

 渡殿の戸を叩いた男性を道長とみる説もあるが、定かではない。

③【年次不明の断続的記事の部分】は、この記事で終わり、④【寛弘7年元日から正月十五日までの記録的部分】へと続く。