倫子からのプレゼント

『紫式部日記』は、名文の誉れ高き、「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」(秋の気配が次第に立ちそめるにつれ、この土御門殿のたたずまいは、いいようもなく趣を深めている)という、寛弘5年(1008)秋の道長の豪邸・土御門第の描写で幕を開ける。

 土御門第には、前年の寛弘4年(1007)12月頃にようやく懐妊した彰子が、出産のため、寛弘5年7月16日から、里下がりしていた(『御堂関白記』、および、『権記』寛弘5年7月16日条)。

 彰子に仕える紫式部も同行している。

『紫式部日記』には、紫式部が道長と女郎花の歌の贈答をしたことが綴られている。

 また、同年9月9日の重陽の節句(菊の節供)の日には、道長の北の方である源倫子から、「老いを念入りに拭き取って、お捨てなさい」と、「菊の着せ綿」が贈られた。

 菊の着せ綿とは、菊の花を真綿でおおい、夜霧と菊の香りを含ませたものだ。

 菊の着せ綿で顔や身体を拭き、老いを除く風習が存在した。

 紫式部は

菊の露 わかゆばかりに 袖ふれて 花のあるじに 千代はゆづらむ

(この菊の露には、私はほんの少し若返る程度に袖を触れるだけにとどめて、この露により伸びるとされる千年もの齢を、菊の花の持主であられる、あなたさま(倫子)にお譲り申します)

 という歌を詠んで返礼しようとしたが、倫子が向こうに帰ってしまったので、贈るのをやめたという。

 この日の夜半、彰子に産気が起こり、9月11日、待望の皇子(敦成親王/のちの後一条天皇)が誕生した。

 この彰子の出産と、祝儀、賀宴などの様子は、『紫式部日記』に、生き生きと描かれている。

 そして、翌寛弘6年(1009)正月に行なわれた、敦成親王の戴餅の儀式に参列する女房たちの衣裳を綴った後に、「このついでに、人のかたちを語り聞こえさせば、もの言ひさがなくやはべるべき」(このついでに人々の容姿についてお話ししたら、お喋りが過ぎますでしょうか)という断り書きを挟んで、女房たちの容姿や性格に言及。

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