本当の父は平兼盛?

 平兼盛は、三十六歌仙の一人に数えられた著名な歌人である。

 天徳4年(960)3月30日の天徳内裏歌合(村上天皇が催した歌合わせ)において、

しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

 という歌で、壬生忠見の

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

 という歌に勝ったといわれる。どちらの歌も、『百人一首』に収められているので、ご存じの方も多いだろう。

 平安後期の歌論書『袋草子』には、赤染衛門の曾孫・大江匡房が著した「江記」から引用する形で、赤染衛門の母は、この平兼盛から離別された後に、赤染衛門を産んだ。兼盛は赤染衛門を引き取りたいと訴訟を起こしたが、赤染衛門の母は時の検非違使・赤染時用と密通して、赤染衛門を時用の子と主張。けっきょくのところ、兼盛の訴えは叶わなかったという話が記されている。

 この話の真偽は定かでないが、当時、「赤染衛門の実父は平兼盛」と信じる人々は多かったとされ、赤染衛門自身も実父は平兼盛だと知っていたともいわれている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』 東海林亜矢子「第十章 年上女性たちとの交流 ――源倫子と赤染衛門」)。

 

源倫子に仕える

 やがて、赤染衛門は益岡徹が演じる源雅信と、その妻である石野真子が演じる藤原穆子が暮らす邸に出仕し、源倫子に仕える女房となった。

 倫子は康保元年(964)生まれであるので、赤染衛門の生年を天徳元年で計算すると、赤染衛門のほうが7歳年上である。

 赤染衛門は、主人宅に与えられた房(部屋)で暮らした(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』 西野悠紀子 第十一章「道長と関わった女房たち① ◎赤染衛門と紫式部」)。

 倫子が永延元年(987)に藤原道長と結婚したのちも、倫子や、倫子と道長の子で、塩野瑛久が演じる一条天皇の中宮である、見上愛が演じる彰子に仕えている。

 赤染衛門は、同じく彰子に仕えた紫式部や、ファーストサマーウイカが演じる清少納言、和泉式部らとも交流があった。

 紫式部は『紫式部日記』のなかで、和泉式部は「それほど和歌に精通していない」、清少納言は「得意顔もはなはだしい」などと辛口な批評をしている。

 だが、赤染衛門に関しては、「その歌は格別に優れているというほどではないですが、実に風格があり、世に知られている彼女の歌は、ちょっとした時に詠んだ歌でも、こちらが恥ずかしくなるほど、立派な詠みぶりです」と、和泉式部や清少納言に比べると、高評価である。