赤染衛門の夫・大江匡衡とは?

 出仕している間に、赤染衛門は大江為基(おおえのためもと)との恋愛を経て、為基の従兄弟である大江匡衡(まさひら)と、天延3年(975)から2~3年の間に結婚したとされる(塩田良平『王朝文学の女性像』)。

 赤染衛門の夫となった大江匡衡は、どのような人物なのだろうか。

 大江匡衡は漢詩文に秀でた学者で、文章博士や東宮学士、一条天皇の侍読など務め、当代随一の碩儒とうたわれた。

 漢詩のみならず和歌の才にも恵まれ、妻・赤染衛門とともに中古三十六歌仙に数えられている。

『今昔物語集』巻第二十四 第五十二によれば、背が高く怒り肩で、風雅の才があったという。赤染衛門より5~6歳くらい年上だったと思われる。

 赤染衛門と匡衡の結婚も当初は通い婚であり、倫子邸の局で生活する赤染衛門のもとに匡衡が通っていた。

 また、赤染衛門の曾孫・大江匡房の曾孫は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で栗原英雄が演じた大江広元だといわれる。

●『鎌倉殿の13人』大江広元はどんな人?頼朝の知恵袋として幕府を支えた官人|「鎌倉殿」とゆかりの地(第6回)

 

母として、妻として

 赤染衛門と匡衡は、娘の江侍従(ごうのじじゅう)や、息子の挙周(たかちか)など、わかっているだけでも、一男二女の子に恵まれた。

『今昔物語集』巻二十四 第五十一には、息子の挙周が病に罹り、日に日に病状が重くなっていくので、赤染衛門は住吉明神に挙周の病気平癒を祈り、御幣の玉串に

代らむと 思ふ命は惜しからで さても別れむ ほどぞ悲しき

(子の命に代わろうと思う私の命は少しも惜しくはないが、そのためにこの子と別れなければならないのが、悲しく思われることだ)

 という歌を書いて奉ったところ、挙周の病は、その夜に治ったという話が綴られている(校注・訳者 馬淵和夫 国東文麿 今野達『今昔物語集 本朝世俗部一完訳 日本の古典30』)。

 また、赤染衛門と匡衡の夫婦仲は良好だったといわれる。

 赤染衛門は、受領となった匡衡が長保3年(1001)と寛弘6年(1009)に尾張守に任じられたときも、翌寛弘7年(1010)に希望して都に近い丹波守に代わったときも、都での生活を捨てて、匡衡に同行している。

 だが、匡衡は長和元年(1012)に、61歳でこの世を去った。

 赤染衛門は夫の死を嘆き悲しみ、やがて出家したという。

 その後、長久2年(1041)に、曾孫となる大江匡房(まさふさ)の生誕を祝った歌があるので(『赤染衛門全集』)、彼女の没年は不明だが、この年まで生存が確認できる。

 この年、赤染衛門は数えで85歳。夫の死後も、強く生き抜いたのだ。