秀頼の母に
茶々と秀吉の婚姻は、かつては天正16年(1588)ごろとみられていたが、天正12年(1584)という説もあり、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』によれば、正確な時期は定かでないが、遅くても天正14年(1586)10月1日までには婚姻したという。
秀吉の妻となった茶々は、天正17年(1589)5月に、第一子となる鶴丸(幼名 捨)を出産する。茶々は21歳、秀吉は53歳のときのことである。
秀吉の嫡男の生母となった茶々は、「御袋様」の尊称と、和久井映見演じる秀吉の正妻・寧々に次ぐ地位を得た(黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』)。
しかし、病弱だった鶴丸は、天正19年(1591)8月に、僅か3歳で夭逝してしまう。秀吉は愛児の死を、大変に嘆き悲しんだという。
だが、茶々は鶴丸の死から二年後の文禄2年(1593)8月3日、大坂城の二の丸で、再び男児を産んだ。それが、豊臣秀頼である。
秀頼は、拾った子は無事に育つという俗信を受け、幼名を拾(ひろい)と名付けられた(ここでは秀頼で統一)。
茶々は25歳、秀吉は57歳になっていた。
秀頼との深い絆
武家社会において、子どもを育てるのは、生母ではなく、乳母が一般的だった。
その理由は、母親が自ら養育すると母子の情が生まれ、母は子を戦場に送り出すことを、子は母を思って戦死することを、躊躇うようになるからだという。
だが、長男の鶴松が乳母に任せて夭逝した反省を踏まえ、秀吉は慣例に背き、生母である茶々に、自ら秀頼の養育にあたることを認めた。
茶々は自ら秀頼を育て、二人は母子の深い情愛で結ばれたという(以上、福島千鶴『豊臣秀頼』)。
茶々は秀吉亡き後も、元和元年(1615)5月8日、「大坂夏の陣」によってともに滅びるまで、秀頼とともに過ごすのであった。