柴田勝家の越前国北庄城へ

 お市と茶々ら三人の娘たちは、小谷城落城に際して城を退去した。

 遠山信春『織田軍記』巻第十三(『通俗日本全史』第7巻所収)には、お市と娘たちは、信長の異母弟とされる織田信包に預け置かれ、清須の城で暮らしたと記されている。

 信長の叔父・織田信次に預けられたとする説もあるが、信憑性の高い史料からは確認できないという。暮らした場所は、清須城とも岐阜城ともいわれるが、いずれにせよ、織田家の庇護を受けたと思われる(和田裕弘『柴田勝家』)。

 天正10年(1582)6月2日、「本能寺の変」が勃発し、信長と彼の嫡子・織田信忠が共に討たれると、いわゆる「清須会議」によって、お市は吉原光夫が演じた柴田勝家に再嫁することとなった。

 岐阜城で婚儀を行なうと、お市は茶々ら三人の娘を伴って、勝家の本拠である越前国北庄城(福井市)に移ったという。

 ところが、翌天正11年(1583)4月、勝家は対立する羽柴秀吉との戦いに敗れ、北庄城は落城。

 お市と勝家は自害した。

 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』によれば、秀吉の猛攻の前に死を覚悟した勝家は、茶々ら三姉妹に富永新六郎という侍を付けて、秀吉の陣所に送ったという。

 経緯には諸説あるものの、茶々ら三姉妹は秀吉に引き渡され、秀吉の庇護を受けることとなった。

 茶々、15歳のときのことである。

 

秀吉のもとへ

 秀吉に引き取られた茶々ら三姉妹は、一説に茶人として知られる叔父の織田有楽(信長の弟)に、預けられたという。また、秀吉の別妻の一人で、茶々のいとこにあたる京極龍子(松の丸殿とも 龍子の母は、茶々の叔母)に預けられたという説もある(小和田哲男『戦国三姉妹物語』)。

 だが、当時の史料には、北庄城を後にした茶々ら三姉妹が、どこに居住し、どう過ごしたのかは記されていないので、確かなことはわからない。

 いずれにせよ、茶々は秀吉の別妻の一人となり、初も江も、秀吉の命により嫁いでいくことになる。