家康の子を流産?

「幕府祚胤伝」によれば、寡婦となった阿茶局は、天正7年(1579)5月、家康に召し出された。名を「阿茶局」と改め、以後、「所々御陣に供奉」したという。

 天正11年(1583)には、阿茶局と神尾忠重の長男・神尾守世が10歳で、森崎ウィン演じる徳川秀忠の小姓になったとされる(『寛政重修諸家譜』)。

 阿茶局は天正12年(1584)、小牧・長久手の合戦に在陣したときに、家康の子を懐妊していた。ところが、戦場にて流産したという(「幕府祚胤伝」)。阿茶局、30歳のときのことである。

 以後も、阿茶局が家康の子を産んだという記録は残っていない。

 だが、家康からの信頼は厚く、庶務や外交も任され、家康の「御台」と称された。ドラマの阿茶局と同じく、聡明で才覚のある女性だったのだろう。

 また、天正17年(1589)に、徳川秀忠の生母・広瀬アリスが演じた於愛の方が、翌天正18年(1590)に山田真歩が演じた家康の正妻・朝日姫(秀吉の妹)が亡くなったため、阿茶局が秀忠の「母代」を務めたとされる(白嵜顕成・田中祥雄・小川雄著『阿茶局』)。

 

家康の死後も髪を下ろさず

 阿茶局は慶長19年(1614)12月の「大坂冬の陣」の講和交渉において、井上祐貴演じる本多正純とともに使者を務めた。このとき阿茶局は60歳で、家康の妻の筆頭であったという。

 元和2年(1616)4月17日、家康が没し、他の側室たちはみな出家したが、阿茶局だけは家康の命により髪を下ろすことが許されなかった。家康は徳川家にはまだ、阿茶局の力が必要だと思ったのだろうか。

 阿茶局は元和6年(1620)、秀忠の娘・徳川和子(東福門院)が、後水尾天皇のもとに嫁ぐ際に、「母代」として和子に随行して上洛している。

 阿茶局は従一位に叙され、「一位殿」と称された。

 寛永9年(1632)、秀忠が死去すると、阿茶局は、これでようやく役目を終えたと思ったのか、髪を下ろし、雲光院と号した。

 そして、寛永14年(1637)正月22日、83歳で長い人生に幕を下ろした。