【広井(廣井)勇(いさみ)】
日本近代土木の父
中村蒼が演じた広瀬佑一郎のモデルと思われるのが、広井勇である。
広井勇は、「日本近代土木の父」といわれる土木工学者で、築港や、橋梁技術の世界的権威である。北海道開拓に尽くした。
広井は、文久2年(1862)9月2日、土佐国高岡郡佐川村(高知県高岡郡佐川町)で生まれた。
牧野富太郎も広井と同年に、同じ佐川村で誕生している。また、広井は富太郎も通った名教館で、幼い頃から学んだという。
広井の父親は広井喜十郎といい、佐川の領主・深尾氏の家臣で御納戸役(藩の会計を担当)を務めていた。だが、明治維新後は没落し、生活は苦しかったといわれる。
明治3年(1870)10月9日、父の喜十郎が、広井が8歳のときに病没し、生活は広井は学問を志したいと強く望み、明治5年(1872)、皇室侍従の職にあった叔父・片岡利和を頼って上京し、片岡家の書生となった。
親戚とはいえ、食客の身である。辛いことも多かったようだ。
私費でアメリカへ
広井は明治7年(1874)、官費で学べる東京外国語学校に入学し、工部大学校予科を経て、明治10年(1877)、15歳のとき、札幌農学校の二期生となった。同級生に、内村鑑三や新渡戸稲造などがいる。
札幌農学校は、北海道大学の前身である。第一代教頭は、「Boys be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の名言で知られる、ウィリアム・スミス・クラーク博士だ。
広井が入学したとき、クラーク博士はすでに帰国していたが、クラーク博士のあとを受けたウィリアム・ホイラー教頭から、数学、土木工学、測量などを教えられた。
卒業後は、開拓使御用掛となった。開拓使が廃止されると、工部省に転じ、北海道から東京に移った。
「渡米して、土木工事の技術を学びたい」と願った広井は、衣食費を削って費用を貯め、明治16年(1883)12月、ついに私費でアメリカへ渡る。
アメリカでは、河川や鉄道会社で働きながら技術を身につけ、ドラマの広瀬佑一郎の台詞にもあったように、ミシシッピ川の治水工事にも関わった。
広井は経済的に厳しい生活のなか、三度の食事を二食に減らして、土佐の母親に毎月送金したという。
一方、札幌農学校では工業科の新設が決まった。広井はアメリカにいながら、その助教授に任命され、さらなる土木工学研究のためにドイツ留学を命じられる。
給与と経費が農学校より仕送られるため、研究に打ち込めるようになった。
明治22年(1889)、広井は最新の土木工学を修めて帰国。札幌農学校の土木工学科教授に任じられた。
清きエンジニアー
その後、広井は北海道庁技師、小樽築港事務所長を兼任。セメントに火山灰を混入して強度を増したコンクリートを用いて、日本初のコンクリート製長大防波堤となる小樽港の北防波堤を完成させた。
明治32年(1899)、広井は工学博士の学位が授与され、東京帝国大学教授に任じられた。
若手の育成に務め、「広井山脈」とも呼ばれる多くの優れた人材を輩出している。
広井は昭和3年(1928)10月1日、急性狭心症により急逝した。享年67である。
学友の内村鑑三は追悼文のなかで、「広井君在りて明治・昭和の日本は清きエンジニアーをもちました」と述べている。
幾多の苦難を乗り越え、日本近代土木の礎を築いた清きエンジニアー広井勇は、ドラマの凛とした広瀬佑一郎と重なる。