【松村任三】

武家に生まれる

 徳永政市教授のモデルと思われるのが、松村任三である。

 松村任三は安政3年(1856)、常陸国下手綱村(茨城県高萩市)で生まれた。要潤が演じた田邊彰久教授のモデルといわれる矢田部良吉より5歳年少で、牧野富太郎より6歳年長である。

 長久保片雲『世界的植物学者 松村任三の生涯』によれば、松村の父親は、遠山鉄次郎景直という。

 遠山鉄次郎景直は、水戸藩士・遠山景行の次男で、のちに松岡領主・中山家の重臣である松村家の養子となった。

 母親は、水戸藩士・久方忠次衛門定静の娘「ふで」である。

 松村は武士の子として、厳しく躾けられたという。

 

東京開成学校を退学

 松村は明治3年(1870)14歳のとき、下手綱を本拠地とした松岡藩の貢進生に選ばれ、東京大学の前身のひとつである大学南校に入学した。大学南校は南校、第一大学区第一番中学の改称を経て、明治7年(1874)5月に東京開成学校となる。

 松村は同校に明治9年(1876)7月まで在学し、政治、法律、科学を英語で学んだが、中退してしまう。

 だが、松村は郷里には戻らず、漢学を学んだ。

 そんな松村に声をかけたのが、矢田部良吉教授だという(『世界的植物学者 松村任三の生涯』)。

 矢田部は松村が退学した明治9年に、カーネル大学の留学を終えて帰国し、9月に東京開成学校の五等教授に任じられていた。

 

矢田部教授のもと、法律から植物学に転じる

 矢田部は翌明治10年(1877)4月19日に東京大学理学部の初代教授、4月19日に東京大学の小石川植物園の事務兼務に任じられた。

 松村はこの植物園に、5月17日付で奉職し、矢田部教授に師事して植物学に転じている。松村は矢田部とともに、日本各地で植物採集を行なった。

 明治12年(1879)10月には、京都府船井郡第二組園部村士族・山内正康の長女「りう」と入籍した(『世界的植物学者 松村任三の生涯』)。

 明治13年(1880)に、小石川植物園植物取調方、翌明治14年(1881)7月には東京大学御用掛(助手に準ずる)となり、予備門で植物学を教えた。

 富太郎が植物学教室を訪れる前年の明治16年(1883)の12月には、助教授に任じられた。松村、27歳のときのことである。

 

矢田部のあとを継いで、植物学教室を任される

 正規に植物学を修めていない松村は、明治18年(1885)12月、私費でドイツ留学に出発。植物分類学、生理学、解剖学を学び、明治21年(1888)8月に帰国した。

 帰国後、帝国大学理科大学(東京大学理学部から改称)の助教授となり、明治23年(1890)に教授に昇進した。この年、牧野富太郎は、矢田部教授から植物学教室への出入りを禁じられている。

 翌明治24年(1891)3月、矢田部が非職(身分・地位はそのままで、職務を解かれること)を命じられ、松村が後任として植物学教室を任された。8月には理学博士の学位を授けられている。

 明治30年(1897)には、東京帝国大学附属小石川植物園の初代園長となった。

 その後も研究と教育に尽力して日本植物学の基礎を築き、大正11年(1922)3月に、東京帝国大学教授を辞任。

 辞任後は東京帝国大学教授名誉教授となり、よく植物教室に顔を出して若者と雑談したり、天気の良い日は植物園内の散歩を楽しんだりと、悠々自適に過ごす姿が見られたという(「田中延次郎 『植物学雑誌』の発刊主唱者の一人』)。

 昭和3年(1928)5月4日、72歳で、東京・本郷にある自宅にて、息を引き取った。

 矢田部良吉と同様に、日本近代植物学の基礎を築いた、偉大な植物学者であった。