田邊聡子のモデル? 矢田部順(シユン)

●壽衛子より年上だった

 田邊教授の妻・田邊聡子のモデルと思われるのが、矢田部良吉教授の妻・矢田部順である。

 順は、明治2年(1869)9月に生まれた(田中正明 時空を紡いで:「柳田國男と山崎珉平・矢田部良吉」を受けて 掲載誌 伊那民俗学研究所編集委員会編『伊那民俗研究』)。

 江戸時代の嘉永4年9月19日(1851年10月13日)生まれの夫・矢田部良吉より、18歳も若い。

 冨太郎より7歳年下で、明治6年(1873)生まれの冨太郎の妻・牧野壽衛子よりも、4歳年上となる。

 

●日本民俗学の創始者・柳田國男は、妹の夫

 順の父親は、信州飯田出身で大審院判事を務めた柳田直平である。母は琴という。

 柳田直平と琴の夫妻の間には、長女の順をはじめ、四人の女子が誕生している。

 姉妹のなかで特筆すべきは、四女の孝だろう。

 孝の夫は、日本民俗学の創始者と称される柳田國男である。

 柳田國男は、旧姓を「松岡」という。

 國男は、明治34年(1901)に柳田直平の養嗣子となり、明治37年(1904)に孝と結婚した。

 つまり順は、柳田國男の義理の姉なのだ。

 

●19歳で矢田部教授の妻に

 順が矢田部良吉と結婚したのは、明治21年(1888)5月10日、矢田部は37歳、順は19歳の年である。

 ドラマでも触れていたが、矢田部の前妻・矢田部録は、前年の明治20年(1887)10月に30歳の若さで亡くなった。

 矢田部と録の間には、二男二女が誕生している(太田由佳・有賀暢迪「矢田部良吉年譜稿」国立科学博物館)。

 順は昭和25年(1950)発行の『学苑』12(4)(113)に「夫の性格の一面」というタイトルの随筆を寄稿しているが、(名前は「矢田部シユン」と表記されている)、それによれば、矢田部との結婚において、「外国のマナーを知ること」が、条件の一つだった。

 そのため順は外国人女性の下で、外国式の作法を学んだという。

 矢田部は大変な凝り性であり、すべてにおいて洋式だった。結婚後、家の中もアメリカ風で、テーブルと椅子での生活だったと、順は綴っている。

 前述の「矢田部良吉年譜稿」によれば、矢田部と順の間には、4人の男子が誕生した。

 

●長寿をまっとう

 明治34年(1899)8月、ドラマでも触れられたように、矢田部は鎌倉で溺死した。享年48であった。

 一方、順は昭和34年(1959)9月まで、存命している(田中正明 時空を紡いで:「柳田國男と山崎珉平・矢田部良吉」を受けて)。

 昭和31年(1956)9月発行の『近代文学研究叢書 第4巻』(昭和女子大学近代文学研究室著)収載の「矢田部良吉」には、同年に順の米寿の祝いがなされたこと。

 吉祥寺十三番地にある息子・矢田部勁吉(五男 国立音楽大学名誉教授、東京芸術大学名誉教授となった声楽家)の邸宅において、元気な姿と声で、矢田部の思い出話を語ったことが記されている。

 ドラマの聡子も、愛する夫の思い出を胸に、長寿をまっとうしたと信じたい。