野宮朔太郎のモデル? 平瀬作五郎

平瀬作五郎

●16歳で図画術教師助手を拝命

『らんまん』に登場する、植物学教室の画工を勤め、イチョウの精虫を発見した野宮朔太郎は、平瀬作五郎がモデルと思われる。

 平瀬は安政3年(1856)に、越前国(福井県)足羽郡で、福井藩士・平瀬儀作の長男として生まれた。

 冨太郎より、6歳年上である。

 小野勇『平瀬作五郎伝(補遺)』(日本生物科学者協会編『生物科学』第39巻 第2号所収)によれば、平瀬は明治2年(1869)、通称・福井藩中学校(福井藩の藩校・明道館 後の明新中学校)に入学したと推定され、在学中に加賀野井という人物から、油絵を学んだという。

 この頃から平瀬の画力は、秀でたものであったらしく、明治5年(1872)、16歳で福井藩中学校を卒業すると、同年4月に母校の図画術教授補助を拝命し、就職している。

 

●帝国大学理科大学の画工に

 ところが、平瀬は翌明治6年(1873)には、福井藩中学校を退職。東京に出て、山田成章という人物から写実派油絵を学んだ。

 山田成章は明治16年(1883)に東京大学御用掛となり、明治19年(1886)に非職となっており、東京大学医学部の画工だったとされる。

 平瀬は、明治8年(1875)に帰郷。

 図画教員として、岐阜県の中学・遷僑学校で勤務し、図画や体育を教えつつ、数種類の図画教科書を著している。

 明治21年(1888)4月には、帝国大学理科大学の植物学教室に画工として就職する。平瀬は32歳になっていた。

 植物学教室で平瀬は、植物図や解剖図を描いたり、プレパラート(顕微鏡で観察するためにつくった標本)の作成に携わったりした。

 当時の植物学教室の教授であった、田邊教授のモデルと思われる矢田部良吉は、図を書くのが得意ではなく、平瀬に「植物らしい図を描いてくれたまえ」と言って笑ったという(小野勇『平瀬作五郎伝Ⅱ』日本生物科学者協会編『生物科学』第35巻 第3号所収)。

 

●イチョウの精子の発見

 平瀬は明治26年(1893)7月からイチョウの研究をはじめ、9月に植物学教室の助手に抜擢された。

 ちなみに矢田部良吉教授から植物学教室の出入りを禁じられていた牧野富太郎も、呼び戻され、平瀬とともに助手に任命されている。

 平瀬は前述したように、帝国大学農科大学助教授となった池野成一郎の助力を受けて研究を続け、明治29年(1896)1月、イプレパラートでイチョウの精子を発見。同年9月には顕微鏡で、泳いでいる(動いている)イチョウの精虫を観察することが叶った。

 これは大発見であったが、「植物学者でもない人間が、偶然に見つけただけだ」、「池野成一郎が力を貸したからこそなし得たことだから、これは池野の発見とするべき」などと、当時の学会では、学歴がない平瀬の研究を認めない者も多かったという。

 

●池野成一郎博士との友情

 イチョウの精虫の発見から1年後の明治30年(1897)9月8日、平瀬は突如として大学を退職した。

 その理由は明らかでないが、教授間の権力争いが絡んでいたともいわれる。

 平瀬は退職の二日後から滋賀県尋常中学校で勤務し、明治38年(1905)には京都の私立花園学林に赴任した。

 明治39年(1906)からは、イチョウの研究を再び初めている。またクロマツの研究も手がけた。

 明治45年(1912)には、思いがけない朗報が舞込んだ。

 平瀬はイチョウの精子発見、池野はソテツの精子発見の功績により、平瀬と池野に、帝国学士院から、学界で最も名誉と権威のある「恩賜賞」が贈られたのだ。

 帝国学士院は当初、池野だけに賞を授与するつもりだった。学歴もなく博士でもない平瀬は、賞の対象外だったのだ。

 ところが、池野は「平瀬が貰えないのなら、私も断わる」と断言したため、平瀬にも授与されたと伝えられる(小野勇『平瀬作五郎伝4』日本生物科学者協会編『生物科学』第36巻 第2号)。

 真偽は定かでないが、ドラマの波多野泰久と野宮朔太郎の固い絆を思い浮かべると、真実のように思えてくるのではないだろうか。