救済の物語の始まりを感じさせる平日面
それではファン・エイク兄弟による《ヘントの祭壇画》を読み解いていきましょう。祭壇画の閉じられている状態を平日面、開いた状態は日曜祝日面と呼びます。《ヘントの祭壇画》の平日面は上中下の三段構成で、中段に大きく描かれているのは「受胎告知」の場面です。
キリスト教の始まりを意味する「受胎告知」は平日面によく描かれる主題で、その彫刻が施されているものが多くあります。この作品でマリアと大天使ガブリエルが白い衣裳を着ているのは、彫刻で置かれていた伝統から、敢えて色を入れず彫刻のような表現を用いたと推定されます。
この絵の新しい点は、大天使ガブリエルとマリアが、民家のような室内空間にいることです。ルネサンス期になるとイタリアでも室内場面として描くようになりますが、フラ・アンジェリコの《受胎告知》(1430-32年頃)のように、これからキリスト教が始まる境の時期という意味から、多くは教会の外と中の中間のような場所として描きました。
また、空間の中に描かれてもイタリアは教会の中、北方はロベルト・カンピンの《メロードの祭壇画》(1420-25年)のように、民家の中という大きな違いもあります。
《ヘントの祭壇画》の受胎告知では、空間自体はすごく広いのに、天井はとても低くなっています。この時代の絵画には、空間の大きさと人物の大きさがチグハグというものが多くありました。
画面中央の開いている窓から見えるのは、ヘントの町です。左から右へと光が差していることが建物の影からわかりますが、室内の床にある「額縁の影」を見ると、室内に差している光は右から左になっています。これは窓を境にして内と外は違う世界だということを表しています。
また、窓の隣に描かれているタオル、やかん、盥(たらい)はマリアの純潔のシンボルで、やかんの上にある三葉形の窓は、三位一体を意味するものです。マリアの右後方の壁の窪みには、処女懐胎の象徴である水の入ったガラスのフラスコがあり、拡大してみると光の反射やガラスに映るものまで描き入れているという、素晴らしい技法が施されています。大天使ガブリエルの胸元や頭につけている真珠、宝石、金の十字架などの表現も精巧で、これらをなし得たのは油彩の力です。
フラスコの中の水が透けて見える様子や、光が当たって輝く宝石などの表現は、のちにイタリアでもフィリッポ・リッピなどの表現に見られますが、これらはすべてヤン・ファン・エイクの影響でした。
大天使ガブリエルの横には「おめでとう。恵まれた者よ」という言葉が、マリアの横には神から見えるように逆さ文字で「私は主のはしためなり」という言葉が書かれています。天にいる神の視点に合わせて、文字を上下逆さまにする表現は、フラ・アンジェリコなども用いています。
「受胎告知」の上にはキリストの誕生を預言した預言者と巫女が、その預言とともに下から見たような構図で描かれています。たとえば受胎告知を受けるマリアを上から見守っているのは預言者ミカで、巻物には「お前の中から、わたしたちのためにイスラエルを治める者がでる」という聖書の一節が書かれています。下から見上げたように描かれた傍らにある栞が挟まれている本はとてもリアルで、静物画のはじまりを思わせるとよく指摘されます。
下段には壁龕の中に4人の人物が描かれています。中央のふたりは石膏の彫像のように見えるグリザイユ(立体感が得られる単彩で描いた絵)で、向かって左は羊を抱き、マントの下に羊の衣を着ていることから洗礼者ヨハネ、右は杯の中から蛇が出ていることから福音書記者ヨハネだということがわかります。それぞれがヘントの町の預言者であり、聖堂の預言者で、この世のものではない聖なる者ということから、彫像のような表現で描かれているのです。
その両側で手を合わせているのが祭壇画の寄進者のヨドクス・フェイトと、その妻エリザベス・ボルリュートです。中段「受胎告知」の室内同様、それぞれの左上に光が差し込んでいますが、これは礼拝堂の窓の位置と関連することがわかっています。
このような奥行きがない狭い空間で区切られているのはゴシック的な表現で、後年のX線の調査で中段の「受胎告知」も、下段のようなゴシック調のアーチ型壁龕で囲まれていたことがわかりました。それをひとつの広い空間にして、さらに中央の2枚は誰もいない空間にしているのは、おそらく構図を考案したのは兄フーベルト、新しい形に改変したのはヤンだろうと推定されています。