「神秘の子羊の礼拝」を読み解く

 日曜祝日面の下段中央に大きく描かれた絵は「神秘の子羊の礼拝」の場面です。

 祭壇画が《神秘の子羊の礼拝の祭壇画》と呼ばれるのはこの絵があるためです。天上のエルサレムの光景のなか、天使たちが取り囲んでいる祭壇の上で血を流している子羊を礼拝している「子羊礼拝」の場面を中心にして、左上方からは証聖者(信仰を表明した人)、右上方からは聖なる処女たちが進んできています。祭壇の下方には生命の泉があり、左側には旧約の族長を先頭に古代の偉人たち、右側には十二使徒と聖人たちが描かれ、全ての聖人たちが四方から集まっているという構図です。

《ヘントの祭壇画》(部分) 1432年 油彩・板 ヘント、聖バーフ大聖堂 
証聖者(左)と聖なる処女(右)

 それぞれの持物から人物を特定することができます。たとえば聖なる処女たちの前列で羊を持っているのは聖アグネス、隣で塔を持っているのは聖バルバラ、車輪を持っているのがアレクサンドリアのカタリナ、花籠を持っているのは聖ドロテアです。

 水が湧き出ている泉は、永遠の生命のしるしでもあり洗礼を示唆するものでもあります。血を流している羊は、聖餐であるぶどう酒とパンを食べるという教会の秘蹟と関わっています。教会のミサに人々が集まるという意味も含まれているのです。

《ヘントの祭壇画》生命の泉(部分) 1432年 油彩・板 ヘント、聖バーフ大聖堂

 また、当時はエルサレムを中心とした世界地図だったので、子羊がいるところをエルサレムとすると、全世界からキリスト教徒たちがエルサレムに集まってくる様子がここに描かれているとも解釈できるという説があります。

 さらに細かいディテールの植物や遠くの空や風景、エルサレムの街の建造物の描写まで、非常に細やかに表現され、かつてなかった壮大な神の国の図像といえるでしょう。

《ヘントの祭壇画》(部分) 1432年 油彩・板 ヘント、聖バーフ大聖堂 旧約の族長を先頭に古代の偉人たち(左)、十二使徒と聖人たち(右)

 エルサレムの両側のパネルには、礼拝に向かう人々が描かれます。左側で馬に乗っている人々は、ブルゴーニュ公などを描いた「正しき裁き人」、聖マルティヌス、聖ゲオルギウス、聖セバスティアヌスなどが描かれているとされる「キリストの騎士」です。騎士たちは十字軍の旗を持っていて、この左側の2枚に描かれた背景から、北方からの人々を表していると考えられます。「正しき裁き人」は1943年に盗難に遭い、現在は複製画が飾られています。

《ヘントの祭壇画》(部分) 1432年 油彩・板 ヘント、聖バーフ大聖堂
左から「正しき裁き人」、「キリストの騎士」

 右パネルは聖パウルス、聖アントニウスらに導かれる人々を描いた「隠修士たち」、その右のパネルにいる大男は幼児キリストを担いで川を渡ったという聖クリストフォルスで、マグダラのマリアとエジプトのマリアも描かれている「巡礼者たち」です。聖クリストフォルスの後ろにいる人物の帽子には聖地サンチィアゴ・デ・コンポステラ巡礼者のしるしである貝殻がついているのが見えます。

《ヘントの祭壇画》(部分) 1432年 油彩・板 ヘント、聖バーフ大聖堂
左から「隠修士たち」、「巡礼者たち」

 右側2枚のパネルの背景に南方の植物があることから、南から集まってきた人々を示しています。おそらくヤン・ファン・エイクもエルサレムやイタリアなど南方に行ったことを示唆するものです。

 以上のように《ヘントの祭壇画》は、「救済の物語」であったり、「天上の物語」であったり、壮大なミサが営まれている様子だったりを日曜祝日や寄進者の特別な日などに扉が開かれた際に、人々が礼拝する大きな祭壇画でした。

 図像の読み取りの面白さと、衣服や床の繊細な模様、宝石やガラス、金属、瞳の虹彩に映り込んでいる光と極小の像まで描き切っているという、いくら見ても見飽きない、人間技を超えた気の遠くなるような細密表現をたっぷり味わっていただきたいと思います。

 

参考文献:
『名画への旅 第9巻 北方に花ひらく 北方ルネサンスⅠ』高野禎子・小林典子・小池寿子・西野嘉章・高橋達史・神原正明/監修(講談社)
『西洋絵画の巨匠12 ファン・エイク』元木幸一/著(小学館)
『西洋美術の歴史5 ルネサンスII 北方の覚醒、自意識と自然表現』秋山聰・小佐野重利・北澤洋子・小池寿子・小林典子/著 (中央公論新社)
『ファン・エイク全作品』前川誠郎/編著(中央公論新社)
『名画の読解力』田中久美子/監修(エムディエヌコーポレーション) 他